虚無と付き合う
この2年ほどで変化できたことをいくつか挙げてみる。
あいさつができるようになった
初っ端から「大丈夫か? 中身のある、、こう流行りのエモい話とかできる人なのか?」と訝しまれそうだが僕にとってはかなりけっこう大事な変化だ。職場が少し特殊なのですれ違いざまにあいさつしない人も多くて、僕も郷に入っては郷に従えでそうしてきたのだけど、とある日同僚の一人が「あいさつは僕、いちおう全員にするようにしてます」と言ってて、見習うようにしてみたら軽くだけど世界が変わった。
人と接するにはまず「こちらには敵意がないです」と示すことが大事だとわかってきて、あいさつはそのための基本中の基本なのかもしれない。
職場だけじゃなくて近所の人とか登校中の小学生(小学校がすぐ近くなので)にも。狭い道で譲ってくれた時にありがとうございますと言うとかも類する話かもしれない。とにかく思っていることで別にやましいことじゃなければ言ったほうがいいとここ最近は考えている。
髪を切った
もうすでに退場者が続出してそうだが、本来ブログとはこんなものではないだろうか。これも特におおげさな理由があるわけでもなく、ヘアケアを怠ったり慢性的な栄養不足だったり加齢だったりで髪の毛が痛んできたので、これ以上はまずいと思って短くした。それももう一年ほど前のことだ。
メイクをするようになった
おそらくここ最近でいちばんの趣味? かもしれない。髪を染めたのに自眉が黒々としてるのがどこかアンバランスに見えて、いろいろ調べた結果、眉マスカラを買って使ってみたのだけど、それきっかけでいろいろ試してみるようになった。単純に自分の顔面が盛れると自信につながるし、外に出るのが億劫じゃなくなる(頻度が減った)し、人と接するときに「自分なんかがァ、、生きててすみません、、世を忍びます」感を出さず純粋にその人自身を見れるようになった。
栄養に気を遣うようになった
これも前項に関連することなのだけど、ビジュを保つことはほとんど健康体でいることとイコールなのだとようやく知れた。若いうちはどんな生活してても生きて寝てれば肌も肉体も復活するのかもだけど、もうそういう年齢でもなくなってきた。おかげで近所のスーパーに行って野菜とか果物とかを見るのが楽しい。
よく気がつくようになった
たとえば困ってそうな人とかなにをやっていいかわからず立ち尽くしている人とかを多くの人はみんな自分が忙しいので放っておきがちなのだけど、孤独が辛いことはよく知っているので声をかけられる状況のときはそうするようになった。人から感謝されたり信頼されたりすることはお金や名誉やプライドよりよほど価値があると知れた。コソコソしとくのがポイントである。僕は元より小回りが利く車ではない。人は案外覚えてくれていて、それがたった一人で、たった一瞬でも、僕だって覚えているし、そういう人でありたいのだった。
虚無と付き合う
しかしどうしたって人の世は代わり映えもせず争いが絶えない。僕自身が当事者になることだってある。いつまでも変わらないという諦めと、そんな人の世にも救いはあるのだという希望がいつでもセパレートしていて、前者をさっぱりきれいに片づけることはおそらく常人として生きていくのであればできない。僕だけがいつでも子どもで、大人のようにふるまうことはきっとやろうと思えば一時的にならできるのだけど、結局体力がつづかないこともわかってきた。セパレートされて片方の端に寄せられた虚無はいつでも「このくらいがちょうどいいんだ」とぼやいている。いつでも「僕は違うのに」と一人思いつづけるのも辛い。共通の一部を見つければいい。たとえば納豆を食べるとか、定期的にものもらいになるとか、カフェが思いのほか冷房効きすぎてて困ったとか、なんでもなにかひとつはあるだろうし、それがつまり僕たちの接点であり、見えない糸だった。
原子心母あとがきその② 蛾の生死
虫が好きなことはこのブログでしょっちゅう、それしか書くことないんかいというほど書いています。特に、蛾が好きです。
『原子心母』では、ヤママユという大型の蛾の幼虫を三人が育てている場面や、要所において蛾が彼らのそばに留まっていたり、飛んでいたりしている場面があります。蛾の魅力はたくさんあって、でもどこが、というのを箇条書きするのともちがいます。これが不思議なことです。
セスジスズメというやや大型の蛾がいます。翅の形がグライダーみたいでとても精悍な蛾ですが、3年ほど前に幼虫をひろってきて育てたことがあります。思えばこの出来事が、虫をよく観察するようになるきっかけであったと思います。
とはいえ別にそれはありふれた出来事で、2匹ひろってきて、なんの葉を食べるのかを調べて、飼育ケースにいれて、日に日に成長していく大食漢ぶりにびっくりしつつ、いつしか蛹になり、1匹はそののち寄生虫が入っていたので死んでしまい、もう1匹は無事に羽化しました。

幼虫→蛹→蛾という一連の流れはいつ見ても感動的で、そしてちょっとありえないほどの大胆な変身でもあります。黒い巨大な芋虫が、精悍なグライダーのような成虫に。しかしこの流れ、を変態というのですが、それは当の本人たちにとっても命がけの行為であり、脱皮や蛹化がうまくできずに死んでしまう幼虫の割合は多いと言われています。また、先にも書いたように寄生虫や、自然界では捕食者によって死んでしまうことももちろん多いです。モンシロチョウの研究では、100の卵のうち成虫になるのは1か2ほどだそうです。ただ、それは当然のことでもあり、1か2以上に生き残ってしまえば外は今頃、蝶や蛾だらけになってしまいます。また捕食者や寄生虫に食べられて自然界の糧となることも大事な仕事です。成虫にまでなってその美しい姿を見せてくれるのは奇跡であり感動的ですが、そうでなくともほかの虫やほかの鳥、植物や微生物の糧となり、どこかでちがう奇跡を生んでいるのかもしれないし、こうした循環を考えると、自然界への憧憬と畏怖が湧いてきます。
擬人化という言葉があり、もちろん絵本などでは、虫が人の言葉をしゃべり、人のような倫理観で生きているさまが感動を呼ぶ作品はたくさんあります。と同時に、彼ら昆虫がどのような感情で、どのような気持ちのもとで生きているのか、と考えると、これは人とはまったくちがう構造のもとで生きているのではないのかなとも思います。
彼らは自分自身がひとつの個体であるという意識が曖昧か、あるいは持っていないのかもしれない、とか思っています。群体として、あるいは種として、あるいは自然界の一部として、なにか地球そのものの調和のための糧になることにためらいがないような気もするのです。死を恐れないというか、種を残すことだけに注力しているけれど、諦めるときは潔いというか。そしてどこか、その先の未来を知っているようなふるまいに見えるんです。それは特に蛾のことです。これは僕の感覚的な話でしかないのですが。

ことに、蛾はそとの壁とか手すりとかにべたーっと留まっていて、それをふいに見つけてびっくりすることが多いですよね。このステルス感が蝶に比べて人気のない原因でもあるはずです。ただ、このびっくり姿こそ蛾の魅力のひとつだと思ってます。いつからいたの? っていうこの姿です。もしかすると昨日からかもしれないし、3日前かもしれない。あるいはもっとずっと前からそうだったのかもしれない。そこに永遠性を感じて、虫にしかない、人の認知能力ではとどかない不思議で美しい領域を想像してしまいます。
【Amazon Kindleにて発売中 新作小説集】
【神谷京介にコーヒーをおごってみよう】
ko-fiという投げ銭サービスです。PayPalがあれば利用可能だと思われます。いただいたサポートはとりあえず名のとおりコーヒー☕一杯分ほどの休憩をさせてもらうために使いたいです。ドル表記ですが日本円換算で普通に支払えます。
もっと巨大なお金はちゃんとお金を持っているところからもらおうと、また不穏な計画を立てていますがそれはそれで別途進めていきます。ko-fiで生計を立てようなどと考えてはいません。気軽なチップ文化が日本にも広まればいいかなという願望も込めて、いつもどおり、隣を気にせずとりあえずやってみるの精神で。
原子心母あとがきその① 九鬼周造「時間論」と円環状の時間
あとがきをつけるかつけないか。これは作家にとって重要ではありつつもむずがゆい問題である。
本作には実はあとがきをつけてません。さして意味はないのですが、なんとなく恥ずかしいから、あとは物語だけを読んでもらったほうがよいかなと思ったからです。でもやっぱり語りたくもあり、やはりむずがゆいです。
少し前、性格診断サイトに「もっと安易なヒロイズムに浸ってもよい」と書かれてあって、なるほどそれもそうだなと思いました。よってこれから書くものもそういった安易なヒロイズムの産物かもしれません。要するに、語るにしても長くなるあとがきは別注にしてしまおうということです。
私の小説には「時間」や「永遠」をテーマにしたものが多いです。それだけ自分の人生において重要なテーマでもあり、私は幼いころから常に、時間の儚さや一般的な通念における非可逆性……要するに二度ともどれない、タイムマシンは現実にはないよねということ……の悲しさを感じて生きていました。
今でも口ぐせのように、ひとりごとで「あー帰りたいなー」とか言ってしまいます。仕事が辛いときとか、なんかちょっとめんどくさい用事があるとか、ひと息ついて泥みたいな味のインスタントコーヒー(ほめている)を飲むときとか、うれしいとき悲しいときいつにかぎらずです。そしてその意味は本人にもあまりわかっていません。ただ漠然と口をついて出るのです。
ほんとうに帰りたいのかは、実際のところよくわかりません。20年前30年前などスマホもYouTubeもなかった時代ですし、帰ったら帰ったで退屈だったり不自由だったりするはずです。ただどこかでそれを望む気持ちがずっとあり、ずっと常に小説を書く原動力となっていました。
たとえば人はさまざまなものを望み、そのために努力をします。お金だったり、名誉だったり(いまどきにいうと承認欲求?)、友人や恋人、家族であったり。
もしも私が望むものが「帰ること」だとするならば、それはつまり普通に考えれば万に一つも望みがないものです。
まだ億万長者になるとかのほうが現実味があります。
タイムマシンを自分で開発するという手もありますが、「ありますが」とか書いている時点で現実味はあまり感じていませんし、百歩譲って生きているうちにタイムマシンが現実に完成して、乗ってみて実際に過去に行けたとしても「ここはほんとうに『あのころ』と同じなのか?」みたいな哲学的な問いにぶつかり、自分の性格上、完全に信じ抜くことは難しいでしょう。
つまり「万に一つも手に入らないものを望んでいる」、
私の人生の底にはいつもその思いがあって、それはもう悲しいとかむなしいとかをも超えた絶対的な諦観でした。その諦観は常に私の小説の中にもあります。
前置きが長くなりましたが、そんな私を救ってくれたのがこの一冊、とまではいわずとも、ひとすじの光を見いだすそんな方法もあるのだと考えさせられた(つまりそれを一般的に人は「救われた」とかちゃんとはっきり短絡的に言葉にするのですが)のが、九鬼周造の『時間論』でした。
『時間の観念と東洋における時間の反復』という章(講演)では、まず冒頭において、
もし「東洋的時間」について語る権利があるとすれば、何よりも輪廻(transmigration)の時間が重要であると思われる。輪廻の時間とは、繰り返す時間、周期的な時間である。
とあります。
「輪廻」とは仏教になじみのある日本人にも聞きなれた言葉ですが、輪廻がはらむ因果律のゆえに、人が個々に持つ時間は永遠に繰り返されているのだといいます。
生まれ変わりという概念がありますが、もし私が死んで、バッタに生まれ変わったとしてもそれは因果のゆえ、つまりバッタに生まれ変わるのは必然であったとするものです。
(本著内ではもっと端的に、虫に生まれ変わる人はすでに虫けらのような生を送っていたからだ、悪人に生まれ変わるのは悪行のゆえだ、みたいな言い方をしています)
そう考えると、「AはAである」という同一律に支配されているのが輪廻説であり、そのゆえに、もしも一人の人間がまたまったく同じ一人の人間に生まれ変わるとするなら、それはむしろ輪廻の典型的な場合である、としています。
そして、時間というものは永遠に周期していく円環状の時間だから、繰り返される輪廻の中で、必ずどこかでまったく同一の私、まったく同一の人生が繰り返される、しかもそれは「生まれ変わり」だから「AとA'」ではなく、言葉どおりまったく同一の「A=A」です。
これであるならば、私の生はまたどこかで必ず繰り返されることになります。帰りたいと思っていた故郷の原風景が、必ずどこかで、たとえ膨大な無限に近い時間をかけても、どこかで繰り返されると、そしてそのとき、まだ無垢であった私がその幸福でありながら不幸でもあり、退屈でありながら美しいその時間をふたたび生きていく。
こういった「回帰」の思想を信じるか信じないかは人次第というか、まぁ人前でいうとちょっと心配されるくらいの代物ではあるのですが、私はどこかやっぱりこころにとどめています。
絶望ではない、ということ。「万に一つ」と「万に一つもない」とでは意味合いがまったくちがいます。私はそこに安らかさを感じ、まだこの私に生きて書き物をするだけの体力を保証してくれます。
さて、この円環状の時間という概念は『原子心母』全体を通してのテーマでもあります。
もしかそれを感じずとも読み切れるのですが、書いた人は『時間論』を読んでいたのだな、という別注があると読みやすく、批評しやすくなるでしょう。
でもたぶん重要なのは、カフーやモアは『時間論』を読んでいたとしても読んでいなかったとしても、彼らの生そのものにおいてその境地にたどりつきそうだったという点なのです。そのような刻々が『原子心母』には書かれているはずです。
【Amazon Kindleにて発売中 新作小説集】
【神谷京介にコーヒーをおごってみよう】
ko-fiという投げ銭サービスです。PayPalがあれば利用可能だと思われます。いただいたサポートはとりあえず名のとおりコーヒー☕一杯分ほどの休憩をさせてもらうために使いたいです。ドル表記ですが日本円換算で普通に支払えます。
もっと巨大なお金はちゃんとお金を持っているところからもらおうと、また不穏な計画を立てていますがそれはそれで別途進めていきます。ko-fiで生計を立てようなどと考えてはいません。気軽なチップ文化が日本にも広まればいいかなという願望も込めて、いつもどおり、隣を気にせずとりあえずやってみるの精神で。
神谷京介 新作電子書籍「原子心母」発売のおしらせ
こんにちは。ひさしぶりに新作のおしらせができてうれしいです。
神谷京介の連作短編小説、タイトルは「原子心母」です。

著 神谷京介
表紙絵画 Ringo
Kindle価格 700円(税込み)
発売日:2024年2月12日
今回、Amazonの電子書籍限定での発売となります。本来は紙の本として発売したかったところですが、予算の都合上叶わず、いったん電子書籍化にとどめる形です。好評をいただければ、また売り上げがたくさん上がればその資金で書籍化にもチャレンジしたいので、ぜひお求めいただければ幸いです。時間をかけて、ゆっくり、がんばって書いた作品です。
こちらからお求めいただけます。
収録作品のうち、「金枝」と「原子心母」の第1章をpixivで公開しています。
この作品は、「金枝」「原子心母」「外亜」という三つの小説から成っています。併せてだいたい本一冊分くらいの文字数です。それぞれ、きんし、げんししんぼ、がいあ、と読ませます。
金枝 について

どこにも寄る辺なさそうな孤独な青年、柳依沙(やなぎ いさ)が主人公の短編です。想いを寄せる少し年上の女性、初枝(はつえ)がいて、彼女の金色の髪の毛に依沙が執着する話となっています。
依沙は私より世代は下ですが、このころ生きていたらこうなっていたか、こうなっていてほしかったな、そうであってよかったな、というような話かもしれません。3作とも一貫して、大切なものは天上でも地上でもなく、自己の内奥にあるのではないでしょうか? と訴えかけるような作品だと思いますが、それがわかりやすく書かれている作品かと思います。彼は自らに理(ことわり、と読ませます)があると発見し、その触媒が絵画だったりもします。水を得た魚になった彼が、だけど社会的にはとても辺境に押しやられている、でもそここそが居場所のような気もしているのではないかな、などと感じます。
原子心母 について

この連作小説集の核となる表題作です。カフーとモア、二人の子どもが山の上の秘密基地から町を望んでいて、語り手(依沙?)は最初こそ行動をともにするものの、彼らが年を重ね、思春期の成長を遂げていく手前で退場し、その後は純粋な語り手として物語を読むだけとなります。モアは舞踏を通して、カフーは回想を通してそれぞれが人生の一時期の苦境をくぐり抜け、その最中に生命の輪転を発見し、表現としてこの世界に印加しようとします。いろんなキーワードが想起できる綜合的な小説なので一言では表現しがたいですが、私にとって大切な作品です。
外亜 について

最後の作品です。短い物語ですが最初から最後までよくわかりません。視点も、依沙のものだったらしくもありますが、そうでなくても読めます。夢の景色のようで、ふとそこから醒めるような克明な描写もあります。外亜とは地球の外にかかる巨大な円環のこと(Over Earth)としています。あくまでも私小説でありたかった、という作者としての一介の秩序に対する生命の抵抗とも読みとれるかもしれませんし、そのような読み方はしなくても結局楽しめます。
おわりに

私小説から子どもの世代へ向けて書いていく過渡期の作品として、私が小説を書き、小説の中で彼らがこれらからも生きて動いていく上で必要だった作品、と形容します。表現が難しいですが、なくてはならない継ぎ目のような作品で、でも、いつもと変わらず普遍的な物語であると思います。キーワードは、「生命」「円環」「再生と再死」。
また、制作にあたってはいろんなトピックをあらためて考え直す機会にふれました。この物語の内容にも関連してくるそれらについて、いくつかブログでも投稿していきたいと考えています。夏休み、秘密基地、蛾、虫と生命、金枝篇、ピンクフロイド、など。個人的な思い出話以上の価値はないかもしれませんが、どんな小説なのかちょっと知るヒントには多少なりそうです。
では、またちょこちょこブログ更新・宣伝いたしますので、世瞬舎の活動再開とともに見守ってくだされば幸いです。
【神谷京介にコーヒーをおごってみよう】
ko-fiという投げ銭サービスです。PayPalがあれば利用可能だと思われます。いただいたサポートはとりあえず名のとおりコーヒー☕一杯分ほどの休憩をさせてもらうために使いたいです。ドル表記ですが日本円換算で普通に支払えます。
もっと巨大なお金はちゃんとお金を持っているところからもらおうと、また不穏な計画を立てていますがそれはそれで別途進めていきます。ko-fiで生計を立てようなどと考えてはいません。気軽なチップ文化が日本にも広まればいいかなという願望も込めて、いつもどおり、隣を気にせずとりあえずやってみるの精神で。
2023.11.20
こんにちは。お久しぶりです。また時間が空いてしまいました。
便りのないのは元気の証拠と言いますが、私の場合も半分は当たっています。
ここ最近の心模様を整理するに、強迫観念から抜け出すためにいったんあらゆる仕事から距離を取っていました。
するとかなり穏やかに過ごせているのは事実で、であれば今までがんばっていたのはなんだったのかなぁ、とかなり気が抜けた気持ちもあります。でもこれは言葉にしようとすると難しいです。夢にも出てきます。本を作りなさいと、やっぱり自分から言われているみたいです。ただ、どうしても一人では動けないのです。だから今までも無理やりやってきたのですが、要するに無理やりやるか、普通にやらないかの二択しか、精神的な余裕も含めた経済的余裕のない貧者には残されていないのだろうな、と思っています。もう少しで、また無理やりがんばります。
ほんとうは楽しくやっていきたいのですが、もちろん、ただどうしても、今はほんとうに心が貧困になっている気がします。財布もですが。良い循環の絵が浮かびません。地獄のような世俗に相対するのが本来の出版の仕事なわけで、それはたぶん楽しくはないのです。こういうわけで今はSNSもほったらかしている有様です。どうしても見れないのです。だから、いちおうTwitterにシェアはするけどボタンひとつでやっているので、今あの地獄の世でなにが起こっているのかは見ずにいます。だから今なにが炎上してるとか、ほんとうにわかってません。
片翼があればよいのになと思います。すべての人格を一人で背負うのは、やろうと思えばできるけれど、そして一時でもそれをやって蓄財してからゆるめるのが正解なのかもしれないけれど(壊れる前にあらゆる不労所得を使って負担を減らすということ)、それができるかどうかはさりとて運にもよるし、などとぶつぶつつぶやいている人が周りにいたらきっとうとまれるだろうな、ということはわかります。かわいそうな人だと思われてもいいのですが、かわいそうな人が経営者になれるはずもなく、ここでもまた人格を多数持つことを一時にでもやっていくべきかそうでないか、すなわち無理やりがんばるかどうかというところに行き当たります。
そうこうしているうちに、一作の小説ができあがろうとしています。なんだか原点回帰したような気持ちです。本当は、これでよかったはずなのにな、とも思います。
ロールを負うことに疲れた、というのが本質的な問題だったのでしょうか。小説を書いているあいだ、私は何者でもなく、ただ自動機械として彼らの言葉を翻訳する装置になれます。ただこれを読んでみたいという気持ちだけで書き進められるのは何にもまして幸福で、地獄の世俗があればなおのこと、こうして筆者である私の存在理由も生まれます。ただしこれでもきっと片翼で、ほんとうは世俗から物語を守り、さばく者、それが要するに出版なのですが、それが必要なのだと思います。
ほとほと記憶喪失になれればよいなとも思うのですが、生活はつづいていくし、督促もつづいていくので、きっとそのうちまたもとにもどります。そのときは、スイッチが切り替わったんかな? くらいに思ってくだされば幸いです。
【神谷京介にコーヒーをおごってみよう】
ko-fiという投げ銭サービスです。PayPalがあれば利用可能だと思われます。いただいたサポートはとりあえず名のとおりコーヒー☕一杯分ほどの休憩をさせてもらうために使いたいです。ドル表記ですが日本円換算で普通に支払えます。
もっと巨大なお金はちゃんとお金を持っているところからもらおうと、また不穏な計画を立てていますがそれはそれで別途進めていきます。ko-fiで生計を立てようなどと考えてはいません。気軽なチップ文化が日本にも広まればいいかなという願望も込めて、いつもどおり、隣を気にせずとりあえずやってみるの精神で。
2023.10.29
夢からヒントを得ることが多いです。場合によってはほとんど答えにもなっているかもしれません。大体において私の人生は、まず直観が先にあり、それを言葉で再現していく試みに近いです。
私は銃で撃たれて倒れた者でした。拳銃ではなく兵士が用いるアサルトライフルで腹から胸までを5、6発撃ち抜かれ、それも至近距離なので、現実ならまず間違いなく身体の原型もとどめぬまま即死だったかと思います。
同時に、私はその後続で様子を伺っている記者グループの一員でした。私は事態が片付いたあとに現場の状況を記録したり、その後会社にもどって原稿を書いたりしていました。
この二人はもちろん他人同士なのですが、はっきりと意識の持続があって、記者は死んだ男の痛みや恐怖を覚えていました。突入する瞬間に死を覚悟したことなども覚えています。死んだかもしれない男の方も、その後、彼の一挙手一投足を記録している男がいて、それは自分だったと確信しています。
これらの示唆は私にとってとても大事なことで、隣人についての考察にまたひとつピースが加えられました。
隣人は自分の資本を脅かす敵である、この教えはとてもいけませんが、子どもを見てさえも、やはり自分がまず満たされていなければ隣人を愛することはできないのかなぁ、とも感じるし(お菓子が余っているとすごく気前がいいです)、それは足し算・引き算のような単純なものではなくて、やはり円環のごとく相互に循環しているものかもしれません。
彼は自分なのだ、と思えるということです。
インフルエンザは、自分としては気のせいだったみたいで、みなさんだんだん回復しています。よかった。
【神谷京介にコーヒーをおごってみよう】
ko-fiという投げ銭サービスです。PayPalがあれば利用可能だと思われます。いただいたサポートはとりあえず名のとおりコーヒー☕一杯分ほどの休憩をさせてもらうために使いたいです。ドル表記ですが日本円換算で普通に支払えます。
もっと巨大なお金はちゃんとお金を持っているところからもらおうと、また不穏な計画を立てていますがそれはそれで別途進めていきます。ko-fiで生計を立てようなどと考えてはいません。気軽なチップ文化が日本にも広まればいいかなという願望も込めて、いつもどおり、隣を気にせずとりあえずやってみるの精神で。
2023.10.28
インフルエンザいきました。
長男と元妻かかったらしいです。私も微熱あったのでたぶんそうだと思います。
しかし寝て起きたら元気になりました。
最近はタミフルを先生迷わず処方するらしいですね。私の世代には衝撃的なニュースで馴染み深いのですが、今は(昔も?)飛び降りたりすることはないそうなので安心です。
バッタを捕まえましたが翌朝死んでしまいました。残念です。
などなど、ごく低温の日々を送っています。
私はもういい年なので「もやもや」とかいった表現をすることは自分の中で少し抵抗があるのですが、そうとしか表現しようのない感情に見舞われる日もあります。
私はだれかにわかってもらいたいのかもしれません。そうとしか思えないような感情の動きと、文章の軸索だったからです。
ただ、それを癒やせるのも解決できるのもまた自分であり、人であり。
つい先ごろ、こういったことを考えさせられるやりとりができて、とても幸福な気持ちになりました。伝わった、と思えることこそ、やはり人にとっての幸福のおおいなるひとつなのでしょう。いずれにしろ、超スーパーあまのじゃくであることに変わりありません。
ふと周りをみると、少しずつ自著の制作も動きはじめている、天気がいい、インスタントコーヒーがうまい、たまに伝わることもある、なにより家族と過ごす時間がある、などなど。
なにを文句のつけようがあろうかと思います。私のあまのじゃくは、どうして満たされているのに、社会は「お前はきっと満たされていないのだろう、幸せじゃないのだろう」などとうそぶいてくるのか、という怒りなのかもしれません。
このように万事流れていくのです。土日、少し読書でもしながら働く気力を溜めます。いつもいつもご迷惑をおかけしています。
【神谷京介にコーヒーをおごってみよう】
ko-fiという投げ銭サービスです。PayPalがあれば利用可能だと思われます。いただいたサポートはとりあえず名のとおりコーヒー☕一杯分ほどの休憩をさせてもらうために使いたいです。ドル表記ですが日本円換算で普通に支払えます。
もっと巨大なお金はちゃんとお金を持っているところからもらおうと、また不穏な計画を立てていますがそれはそれで別途進めていきます。ko-fiで生計を立てようなどと考えてはいません。気軽なチップ文化が日本にも広まればいいかなという願望も込めて、いつもどおり、隣を気にせずとりあえずやってみるの精神で。