超時空の夜

作家/ちいさな出版社「世瞬舎」代表 

原子心母あとがきその② 蛾の生死

 虫が好きなことはこのブログでしょっちゅう、それしか書くことないんかいというほど書いています。特に、蛾が好きです。

『原子心母』では、ヤママユという大型の蛾の幼虫を三人が育てている場面や、要所において蛾が彼らのそばに留まっていたり、飛んでいたりしている場面があります。蛾の魅力はたくさんあって、でもどこが、というのを箇条書きするのともちがいます。これが不思議なことです。

 

 セスジスズメというやや大型の蛾がいます。翅の形がグライダーみたいでとても精悍な蛾ですが、3年ほど前に幼虫をひろってきて育てたことがあります。思えばこの出来事が、虫をよく観察するようになるきっかけであったと思います。

 とはいえ別にそれはありふれた出来事で、2匹ひろってきて、なんの葉を食べるのかを調べて、飼育ケースにいれて、日に日に成長していく大食漢ぶりにびっくりしつつ、いつしか蛹になり、1匹はそののち寄生虫が入っていたので死んでしまい、もう1匹は無事に羽化しました。

 

羽化した日のセスジスズメ。朝起きたらいた

 

 幼虫→蛹→蛾という一連の流れはいつ見ても感動的で、そしてちょっとありえないほどの大胆な変身でもあります。黒い巨大な芋虫が、精悍なグライダーのような成虫に。しかしこの流れ、を変態というのですが、それは当の本人たちにとっても命がけの行為であり、脱皮や蛹化がうまくできずに死んでしまう幼虫の割合は多いと言われています。また、先にも書いたように寄生虫や、自然界では捕食者によって死んでしまうことももちろん多いです。モンシロチョウの研究では、100の卵のうち成虫になるのは1か2ほどだそうです。ただ、それは当然のことでもあり、1か2以上に生き残ってしまえば外は今頃、蝶や蛾だらけになってしまいます。また捕食者や寄生虫に食べられて自然界の糧となることも大事な仕事です。成虫にまでなってその美しい姿を見せてくれるのは奇跡であり感動的ですが、そうでなくともほかの虫やほかの鳥、植物や微生物の糧となり、どこかでちがう奇跡を生んでいるのかもしれないし、こうした循環を考えると、自然界への憧憬と畏怖が湧いてきます。

 

 擬人化という言葉があり、もちろん絵本などでは、虫が人の言葉をしゃべり、人のような倫理観で生きているさまが感動を呼ぶ作品はたくさんあります。と同時に、彼ら昆虫がどのような感情で、どのような気持ちのもとで生きているのか、と考えると、これは人とはまったくちがう構造のもとで生きているのではないのかなとも思います。 

 

 彼らは自分自身がひとつの個体であるという意識が曖昧か、あるいは持っていないのかもしれない、とか思っています。群体として、あるいは種として、あるいは自然界の一部として、なにか地球そのものの調和のための糧になることにためらいがないような気もするのです。死を恐れないというか、種を残すことだけに注力しているけれど、諦めるときは潔いというか。そしてどこか、その先の未来を知っているようなふるまいに見えるんです。それは特に蛾のことです。これは僕の感覚的な話でしかないのですが。

 

数日前に見つけた小蛾。かわいい

 ことに、蛾はそとの壁とか手すりとかにべたーっと留まっていて、それをふいに見つけてびっくりすることが多いですよね。このステルス感が蝶に比べて人気のない原因でもあるはずです。ただ、このびっくり姿こそ蛾の魅力のひとつだと思ってます。いつからいたの? っていうこの姿です。もしかすると昨日からかもしれないし、3日前かもしれない。あるいはもっとずっと前からそうだったのかもしれない。そこに永遠性を感じて、虫にしかない、人の認知能力ではとどかない不思議で美しい領域を想像してしまいます。

 

 

 

 

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原子心母あとがきその① 九鬼周造「時間論」と円環状の時間

 あとがきをつけるかつけないか。これは作家にとって重要ではありつつもむずがゆい問題である。

 

 本作には実はあとがきをつけてません。さして意味はないのですが、なんとなく恥ずかしいから、あとは物語だけを読んでもらったほうがよいかなと思ったからです。でもやっぱり語りたくもあり、やはりむずがゆいです。

 

 少し前、性格診断サイトに「もっと安易なヒロイズムに浸ってもよい」と書かれてあって、なるほどそれもそうだなと思いました。よってこれから書くものもそういった安易なヒロイズムの産物かもしれません。要するに、語るにしても長くなるあとがきは別注にしてしまおうということです。

 

 

 私の小説には「時間」や「永遠」をテーマにしたものが多いです。それだけ自分の人生において重要なテーマでもあり、私は幼いころから常に、時間の儚さや一般的な通念における非可逆性……要するに二度ともどれない、タイムマシンは現実にはないよねということ……の悲しさを感じて生きていました。

 今でも口ぐせのように、ひとりごとで「あー帰りたいなー」とか言ってしまいます。仕事が辛いときとか、なんかちょっとめんどくさい用事があるとか、ひと息ついて泥みたいな味のインスタントコーヒー(ほめている)を飲むときとか、うれしいとき悲しいときいつにかぎらずです。そしてその意味は本人にもあまりわかっていません。ただ漠然と口をついて出るのです。

 

 ほんとうに帰りたいのかは、実際のところよくわかりません。20年前30年前などスマホYouTubeもなかった時代ですし、帰ったら帰ったで退屈だったり不自由だったりするはずです。ただどこかでそれを望む気持ちがずっとあり、ずっと常に小説を書く原動力となっていました。

 

 たとえば人はさまざまなものを望み、そのために努力をします。お金だったり、名誉だったり(いまどきにいうと承認欲求?)、友人や恋人、家族であったり。

 もしも私が望むものが「帰ること」だとするならば、それはつまり普通に考えれば万に一つも望みがないものです。

 まだ億万長者になるとかのほうが現実味があります。

 タイムマシンを自分で開発するという手もありますが、「ありますが」とか書いている時点で現実味はあまり感じていませんし、百歩譲って生きているうちにタイムマシンが現実に完成して、乗ってみて実際に過去に行けたとしても「ここはほんとうに『あのころ』と同じなのか?」みたいな哲学的な問いにぶつかり、自分の性格上、完全に信じ抜くことは難しいでしょう。

 

 つまり「万に一つも手に入らないものを望んでいる」、

 私の人生の底にはいつもその思いがあって、それはもう悲しいとかむなしいとかをも超えた絶対的な諦観でした。その諦観は常に私の小説の中にもあります。

 

 

 前置きが長くなりましたが、そんな私を救ってくれたのがこの一冊、とまではいわずとも、ひとすじの光を見いだすそんな方法もあるのだと考えさせられた(つまりそれを一般的に人は「救われた」とかちゃんとはっきり短絡的に言葉にするのですが)のが、九鬼周造の『時間論』でした。

 

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『時間の観念と東洋における時間の反復』という章(講演)では、まず冒頭において、

 

 もし「東洋的時間」について語る権利があるとすれば、何よりも輪廻(transmigration)の時間が重要であると思われる。輪廻の時間とは、繰り返す時間、周期的な時間である。

 

 とあります。

 

「輪廻」とは仏教になじみのある日本人にも聞きなれた言葉ですが、輪廻がはらむ因果律のゆえに、人が個々に持つ時間は永遠に繰り返されているのだといいます。

 生まれ変わりという概念がありますが、もし私が死んで、バッタに生まれ変わったとしてもそれは因果のゆえ、つまりバッタに生まれ変わるのは必然であったとするものです。

(本著内ではもっと端的に、虫に生まれ変わる人はすでに虫けらのような生を送っていたからだ、悪人に生まれ変わるのは悪行のゆえだ、みたいな言い方をしています)

 

 そう考えると、「AはAである」という同一律に支配されているのが輪廻説であり、そのゆえに、もしも一人の人間がまたまったく同じ一人の人間に生まれ変わるとするなら、それはむしろ輪廻の典型的な場合である、としています。

 

 そして、時間というものは永遠に周期していく円環状の時間だから、繰り返される輪廻の中で、必ずどこかでまったく同一の私、まったく同一の人生が繰り返される、しかもそれは「生まれ変わり」だから「AとA'」ではなく、言葉どおりまったく同一の「A=A」です。

 

 これであるならば、私の生はまたどこかで必ず繰り返されることになります。帰りたいと思っていた故郷の原風景が、必ずどこかで、たとえ膨大な無限に近い時間をかけても、どこかで繰り返されると、そしてそのとき、まだ無垢であった私がその幸福でありながら不幸でもあり、退屈でありながら美しいその時間をふたたび生きていく。

 

 

 こういった「回帰」の思想を信じるか信じないかは人次第というか、まぁ人前でいうとちょっと心配されるくらいの代物ではあるのですが、私はどこかやっぱりこころにとどめています。

 絶望ではない、ということ。「万に一つ」と「万に一つもない」とでは意味合いがまったくちがいます。私はそこに安らかさを感じ、まだこの私に生きて書き物をするだけの体力を保証してくれます。

 

 

 さて、この円環状の時間という概念は『原子心母』全体を通してのテーマでもあります。

 もしかそれを感じずとも読み切れるのですが、書いた人は『時間論』を読んでいたのだな、という別注があると読みやすく、批評しやすくなるでしょう。

 

 でもたぶん重要なのは、カフーやモアは『時間論』を読んでいたとしても読んでいなかったとしても、彼らの生そのものにおいてその境地にたどりつきそうだったという点なのです。そのような刻々が『原子心母』には書かれているはずです。

 

 

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神谷京介 新作電子書籍「原子心母」発売のおしらせ

 こんにちは。ひさしぶりに新作のおしらせができてうれしいです。

 神谷京介の連作短編小説、タイトルは「原子心母」です。

 

 

 

著 神谷京介

表紙絵画 Ringo

電子書籍Amazon Kindle

Kindle価格 700円(税込み)

発売日:2024年2月12日

 

 

 今回、Amazon電子書籍限定での発売となります。本来は紙の本として発売したかったところですが、予算の都合上叶わず、いったん電子書籍化にとどめる形です。好評をいただければ、また売り上げがたくさん上がればその資金で書籍化にもチャレンジしたいので、ぜひお求めいただければ幸いです。時間をかけて、ゆっくり、がんばって書いた作品です。

 

 こちらからお求めいただけます。

 

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 収録作品のうち、「金枝」と「原子心母」の第1章をpixivで公開しています。

 

www.pixiv.net

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 この作品は、「金枝」「原子心母」「外亜」という三つの小説から成っています。併せてだいたい本一冊分くらいの文字数です。それぞれ、きんし、げんししんぼ、がいあ、と読ませます。

 

 金枝 について

 

 

 どこにも寄る辺なさそうな孤独な青年、柳依沙(やなぎ いさ)が主人公の短編です。想いを寄せる少し年上の女性、初枝(はつえ)がいて、彼女の金色の髪の毛に依沙が執着する話となっています。

 依沙は私より世代は下ですが、このころ生きていたらこうなっていたか、こうなっていてほしかったな、そうであってよかったな、というような話かもしれません。3作とも一貫して、大切なものは天上でも地上でもなく、自己の内奥にあるのではないでしょうか? と訴えかけるような作品だと思いますが、それがわかりやすく書かれている作品かと思います。彼は自らに理(ことわり、と読ませます)があると発見し、その触媒が絵画だったりもします。水を得た魚になった彼が、だけど社会的にはとても辺境に押しやられている、でもそここそが居場所のような気もしているのではないかな、などと感じます。

 

 

 原子心母 について

 この連作小説集の核となる表題作です。カフーとモア、二人の子どもが山の上の秘密基地から町を望んでいて、語り手(依沙?)は最初こそ行動をともにするものの、彼らが年を重ね、思春期の成長を遂げていく手前で退場し、その後は純粋な語り手として物語を読むだけとなります。モアは舞踏を通して、カフーは回想を通してそれぞれが人生の一時期の苦境をくぐり抜け、その最中に生命の輪転を発見し、表現としてこの世界に印加しようとします。いろんなキーワードが想起できる綜合的な小説なので一言では表現しがたいですが、私にとって大切な作品です。

 

 

 外亜 について

 最後の作品です。短い物語ですが最初から最後までよくわかりません。視点も、依沙のものだったらしくもありますが、そうでなくても読めます。夢の景色のようで、ふとそこから醒めるような克明な描写もあります。外亜とは地球の外にかかる巨大な円環のこと(Over Earth)としています。あくまでも私小説でありたかった、という作者としての一介の秩序に対する生命の抵抗とも読みとれるかもしれませんし、そのような読み方はしなくても結局楽しめます。

 

 おわりに

 

 私小説から子どもの世代へ向けて書いていく過渡期の作品として、私が小説を書き、小説の中で彼らがこれらからも生きて動いていく上で必要だった作品、と形容します。表現が難しいですが、なくてはならない継ぎ目のような作品で、でも、いつもと変わらず普遍的な物語であると思います。キーワードは、「生命」「円環」「再生と再死」。

 

 また、制作にあたってはいろんなトピックをあらためて考え直す機会にふれました。この物語の内容にも関連してくるそれらについて、いくつかブログでも投稿していきたいと考えています。夏休み、秘密基地、蛾、虫と生命、金枝篇ピンクフロイド、など。個人的な思い出話以上の価値はないかもしれませんが、どんな小説なのかちょっと知るヒントには多少なりそうです。

 

 では、またちょこちょこブログ更新・宣伝いたしますので、世瞬舎の活動再開とともに見守ってくだされば幸いです。

 

 

 

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2023.11.20

 こんにちは。お久しぶりです。また時間が空いてしまいました。

 便りのないのは元気の証拠と言いますが、私の場合も半分は当たっています。

 ここ最近の心模様を整理するに、強迫観念から抜け出すためにいったんあらゆる仕事から距離を取っていました。

 するとかなり穏やかに過ごせているのは事実で、であれば今までがんばっていたのはなんだったのかなぁ、とかなり気が抜けた気持ちもあります。でもこれは言葉にしようとすると難しいです。夢にも出てきます。本を作りなさいと、やっぱり自分から言われているみたいです。ただ、どうしても一人では動けないのです。だから今までも無理やりやってきたのですが、要するに無理やりやるか、普通にやらないかの二択しか、精神的な余裕も含めた経済的余裕のない貧者には残されていないのだろうな、と思っています。もう少しで、また無理やりがんばります。

 ほんとうは楽しくやっていきたいのですが、もちろん、ただどうしても、今はほんとうに心が貧困になっている気がします。財布もですが。良い循環の絵が浮かびません。地獄のような世俗に相対するのが本来の出版の仕事なわけで、それはたぶん楽しくはないのです。こういうわけで今はSNSもほったらかしている有様です。どうしても見れないのです。だから、いちおうTwitterにシェアはするけどボタンひとつでやっているので、今あの地獄の世でなにが起こっているのかは見ずにいます。だから今なにが炎上してるとか、ほんとうにわかってません。

 

 片翼があればよいのになと思います。すべての人格を一人で背負うのは、やろうと思えばできるけれど、そして一時でもそれをやって蓄財してからゆるめるのが正解なのかもしれないけれど(壊れる前にあらゆる不労所得を使って負担を減らすということ)、それができるかどうかはさりとて運にもよるし、などとぶつぶつつぶやいている人が周りにいたらきっとうとまれるだろうな、ということはわかります。かわいそうな人だと思われてもいいのですが、かわいそうな人が経営者になれるはずもなく、ここでもまた人格を多数持つことを一時にでもやっていくべきかそうでないか、すなわち無理やりがんばるかどうかというところに行き当たります。

 

 そうこうしているうちに、一作の小説ができあがろうとしています。なんだか原点回帰したような気持ちです。本当は、これでよかったはずなのにな、とも思います。

 ロールを負うことに疲れた、というのが本質的な問題だったのでしょうか。小説を書いているあいだ、私は何者でもなく、ただ自動機械として彼らの言葉を翻訳する装置になれます。ただこれを読んでみたいという気持ちだけで書き進められるのは何にもまして幸福で、地獄の世俗があればなおのこと、こうして筆者である私の存在理由も生まれます。ただしこれでもきっと片翼で、ほんとうは世俗から物語を守り、さばく者、それが要するに出版なのですが、それが必要なのだと思います。

 

 ほとほと記憶喪失になれればよいなとも思うのですが、生活はつづいていくし、督促もつづいていくので、きっとそのうちまたもとにもどります。そのときは、スイッチが切り替わったんかな? くらいに思ってくだされば幸いです。

 

 

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2023.10.29

 夢からヒントを得ることが多いです。場合によってはほとんど答えにもなっているかもしれません。大体において私の人生は、まず直観が先にあり、それを言葉で再現していく試みに近いです。

 

 私は銃で撃たれて倒れた者でした。拳銃ではなく兵士が用いるアサルトライフルで腹から胸までを5、6発撃ち抜かれ、それも至近距離なので、現実ならまず間違いなく身体の原型もとどめぬまま即死だったかと思います。

 同時に、私はその後続で様子を伺っている記者グループの一員でした。私は事態が片付いたあとに現場の状況を記録したり、その後会社にもどって原稿を書いたりしていました。

 この二人はもちろん他人同士なのですが、はっきりと意識の持続があって、記者は死んだ男の痛みや恐怖を覚えていました。突入する瞬間に死を覚悟したことなども覚えています。死んだかもしれない男の方も、その後、彼の一挙手一投足を記録している男がいて、それは自分だったと確信しています。

 

 これらの示唆は私にとってとても大事なことで、隣人についての考察にまたひとつピースが加えられました。

 隣人は自分の資本を脅かす敵である、この教えはとてもいけませんが、子どもを見てさえも、やはり自分がまず満たされていなければ隣人を愛することはできないのかなぁ、とも感じるし(お菓子が余っているとすごく気前がいいです)、それは足し算・引き算のような単純なものではなくて、やはり円環のごとく相互に循環しているものかもしれません。

 

 彼は自分なのだ、と思えるということです。

 インフルエンザは、自分としては気のせいだったみたいで、みなさんだんだん回復しています。よかった。

 

 

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2023.10.28

 インフルエンザいきました。

 長男と元妻かかったらしいです。私も微熱あったのでたぶんそうだと思います。

 しかし寝て起きたら元気になりました。

 

 最近はタミフルを先生迷わず処方するらしいですね。私の世代には衝撃的なニュースで馴染み深いのですが、今は(昔も?)飛び降りたりすることはないそうなので安心です。

 

 バッタを捕まえましたが翌朝死んでしまいました。残念です。

 などなど、ごく低温の日々を送っています。

  

 私はもういい年なので「もやもや」とかいった表現をすることは自分の中で少し抵抗があるのですが、そうとしか表現しようのない感情に見舞われる日もあります。

 私はだれかにわかってもらいたいのかもしれません。そうとしか思えないような感情の動きと、文章の軸索だったからです。

 ただ、それを癒やせるのも解決できるのもまた自分であり、人であり。

 つい先ごろ、こういったことを考えさせられるやりとりができて、とても幸福な気持ちになりました。伝わった、と思えることこそ、やはり人にとっての幸福のおおいなるひとつなのでしょう。いずれにしろ、超スーパーあまのじゃくであることに変わりありません。

 

 ふと周りをみると、少しずつ自著の制作も動きはじめている、天気がいい、インスタントコーヒーがうまい、たまに伝わることもある、なにより家族と過ごす時間がある、などなど。

 なにを文句のつけようがあろうかと思います。私のあまのじゃくは、どうして満たされているのに、社会は「お前はきっと満たされていないのだろう、幸せじゃないのだろう」などとうそぶいてくるのか、という怒りなのかもしれません。

 

 このように万事流れていくのです。土日、少し読書でもしながら働く気力を溜めます。いつもいつもご迷惑をおかけしています。

 

 

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小説家とお金の問題

 

 歴史と現在

 今からだいたい7~8年くらい前でしょうか。「好きなことで生きていく」ブームみたいなのがキテました。Youtuberやブロガーといった新職種が注目を集め、それらは絶妙に「こんなんなら俺でもできるかも」的なラインを突いていました。第二新卒的な境遇であった当時の私も乗せられたうちの一人かもしれませんが、古来からこの手の話はありふれており、つまるところ、ゴールドラッシュで一番儲かったのはツルハシを売る人たちだったとの言葉が表すとおり、たいていの人は資本主義の一番おいしいとこを取りきれず撤退していくのです。

「生きていく=働いて金を得る」に直結してしまう思想は当時猛威をふるっていた新自由主義的な世界観とマッチポンプの関係を築き、その余波は今でもつづいています。

 

 今の私は「世界がどうやったらもっとよくなるかなぁ」みたいなことを平日の昼間から考えているちょっと変態的な人間になってしまいました。

 そこでいつも行き当たるのは金という存在です。世界中のさまざまな問題は金がなくなれば9割がた解決するのではとさえ思います。

 

 考えてもみてください。日本人はよく無宗教だと言われます。いわゆる宗教団体に入信している人以外にとって、比喩表現ではなく「この世(またはあの世)には神様が存在する」とは思っていない人が大半なのではないでしょうか。

 しかしまた。

 考えてもみてください。

 比喩表現ではなく「この世にはお金が存在する」ということは、おそらく99%の人が思っているはずです。そうでなければ私たちはコンビニでお菓子も買えません。

 

 この人類史上最大の詐欺ともいえる憎むべき金については、これはもう現時点において「僕だけは信じない」という態度をとることはできません。金は現時点において、社会的な生活を送るうえで必ず付き合っていかねばならないものです。よって私自身もなんらかの形で社会から対価を得て働かなければなりません。これが信仰・宗教といわずしてなんであるでしょう。

 

 もちろん、働く(というこれまた人類史上最大の詐欺)ことにおいて、なるべく楽をしたい、なるべく嫌な思いをしたくないというのはだれもが思うことでしょう。そこで私のような胡散臭い山師は「小説を書いて生きていきたい」などとうっかり吹聴してしまい、どうにかこうにか好きなことで、なるべく自分が楽で嫌な思いをしない方法で、生活を維持していきたい的な発想になります。ついでに富と名声も得れれば万事よしです。

 

 さて「小説家」という職業が成立したのはいつごろのことになるのでしょうか。なんにしても歴史を知ることが大事で、山師にそそのかされてツルハシを買っている場合ではありません。

 

 古来よりいわゆる物語は、人類が文明を持つ以前から存在していました。洞窟に描かれた壁画であったり、文字が成立する以前に口伝で伝えられた神話であったりをここでは指します。それらは単一の作者が書いたものでもなく、もっぱら伝言ゲームのように民から民へ伝えられてきた中で改変・編集がされてきたのだと考えられます。当然、著作権や印税といった概念はなく、王朝専属の書記で創作の書き物を担当していたとか、ほんのごくわずかな例外を除いて(そういった例外があったかも不明ですが)、小説を書いて生計を立てている的な人間は皆無だったといえるでしょう。

 

 それから長い時が経つうち、文明が興り、文字が発明され、人類は都市や国といった大規模な集団生活の中に生きるようになりました。書物は時代によって粘土板であったり巻物であったり、本であったりと形を変えてきましたが、共通して人々に言葉を伝える最良の装置であったでしょう。

 そこからさらに千数百年ほどが経った中世ヨーロッパにおいて、活版印刷技術が開発されました。1445年ごろのことです。書物はかつてないほどの大量複製が可能となり、この流通過程において著作権という概念が生まれ、単一の作者による創作の書き物、つまり小説といった形式も整備されてきました。

 

 一方、日本において出版の興隆は、それが学術的な書物ではなく、不特定多数の人々が娯楽のために読む読み物という解釈をとると、国内の戦乱がある程度収まり、平和な時代を迎えた江戸時代ごろまで待たねばならなかった、という説が主流のようです。

 江戸を中心とした庶民の読み物文化は勧善懲悪・人情ものなど通俗的な内容が主でした。絵入りの娯楽本は草双紙と呼ばれ親しまれました。

 Wikiを見るとこの時代の代表的な作家の一人、南総里見八犬伝で有名な曲亭馬琴は大家的な事業も兼業していたようです。江戸時代の出版事情は現代ほど出版社・取次・書店といった整備がされておらず、ざっくり一括で地本問屋的な感じだったようです。作家の立場としても、今よりももっと水もの商売の感はあったでしょう。

 

 その後の明治時代には国内でもようやく活版印刷が主流となり、庶民の識字率向上、新聞や雑誌など新たな読み物の形態、西洋思想に強く影響を受けた近代文学の登場などの動きがありました。出版流通システムも飛躍的に整備されていきました。

 明治期の代表的な作家、夏目漱石は英語教師だったことも知られていますが、のちに朝日新聞社に入社し、厳然たる職業作家となりました。私が確認する限り、漱石が「小説家」として生計を立てている人、つまり専業作家となった最初の人的に扱ってもいいように思います。

 

 大正・昭和と時代が進み、さまざまな作家が旺盛に小説作品を書き下ろし、近代文学の礎が築かれていたころ、改造社という出版社から「現代日本文学全集」という本が刊行されます。全63巻、1冊1円という低価格で古今の名作文学作品を収録した全集ものの開祖でした。大正末期から昭和初期にかけてこれらの円本ブームが起き、出版流通体制の整備とともにすさまじい供給能力、そして庶民の需要を呼び込みました。この全集に名を連ねた執筆者たちはその莫大な印税の恩恵を受けたと言われています。

 出版史的にみれば、大方においてこの「円本」周辺から出版の産業化が進み、ほとんど現在に至るまでこのシステム、つまり大量生産・大量販売による薄利多売路線は変わっていないとみられています。

 そして戦後以降もベストセラー本は次々生まれ、その時々で莫大な印税を受け取った執筆者たちはいたでしょう。専業作家という存在はこの辺りにおいて「どうやら世間にはいるらしい」といった認識となったのかもしれません。

 

 このインターネット時代においてはいろんな情報が可視化され、専業作家となれる人はいまだにごくわずかであり、しかもそのなれ方みたいなのもいろんな大人つまり私のような胡散臭い山師たちによる恣意的な決定がなされる世界だというのも把握されてきました。偉そうな肩書きをプロフィールに載せてすごそうななにかを言えば騙される人もぼちぼちいるといった地獄の様相を呈しています。落ち着いてみてほしいのですが、作家などなんの資格もいらないただの素人です。編集者などその辺のサラリーマンです。娯楽が多様化し、スマホが大衆を制御する麻薬として機能している現在、商品としての小説をつくることになんの意味があるのでしょう。

 

 しかしやはり依然として専業作家は魅力に満ちています。ロマンがあります。なぜなら好きなことだけで生計を立てられるからです。

 社会の些事は本当に醜悪で、できることなら自著はさっさとベストセラーになってほしいです。でも翻って考えると、先に書いた通り金は人類史上最大の詐欺なのです。なぜ詐欺に付き合わねばならないのでしょうか。

 

 

 処方箋

 このような変遷の認識と自分自身の活動の中で、どうにかうまく身を処していく方法をいつも考えています。私自身の最大の課題、大いなる些事として「どうやって生計を立てるか」が屹立しています。それを解決できているわけではないので、成功者の言葉的な脳死ありがたさはないのかもしれませんが、小説と小説家という所作に対して、だれよりも真摯に向き合ってきた自負はあります。その辺で説得力を持ってもらえると、いろんな人が気持ちよく騙されてもらえるのかなとも思います。

 

 ひとつには単純に賃金労働をすることです。もうひとつは国のお世話になるか(もう半分なっているが)。そして最大の課題は、がんばって生きているということを見せなくてはならないことなのですが、どーしてもそれが苦手です。

 私はたぶん「実際話したらおもしろい人だった」みたいな感じだと思うのですが、このインターネット社会において「実際会ってみたら」「実際話してみたら」といった状況よりも、公的に全世界に対しての言葉で、でなければ支持されないのです。

 公の言葉を手に入れたい、という思いは以前にも書きました。そのために今も勉強している最中です。ブログはその練習でもあります。

 

 

 抱負

 今後は更新頻度をもう少し高めていきたいです。考えていること、挑戦してみたこと、やりたいと思っていること、幸せを感じること、さまざまな事柄はあるはずなのに伝えきれなかったのですよね。

 でも私が言いたいのは、それは不自然なることなのだということです。公の言葉が苦手な人は案外たくさんいて、それで勝手に世間から判定を受けることがなにより嫌いです。

 人間などみんなおもしろいのです。そこに相対評価をつけて金として返還されていくこの社会がまじキモスというのは大前提としてありながら、そしてそのような社会を漸進的に変えていきたいと思いながら、今は乗っかっていくのがたぶん得策なのです。だって家賃払えないんだもの。

 

 すなわち私は、ただ私だけのためにブログをがんばってみて、創作の話とか出版の話とか、自分が学んできた自分にとって有益だったことなどを変態的な解釈で解説したりもできたらおもしろいのかなとか思っています。

 進行中の作品の制作状況などもお伝えできるとなおいいはずです。

 出版物にとどまらない活動や事業の構想もあって、これは私が出版=本を編集して販売すること という一般的な認識より広い視野を勉強の結果持てたことにもよるのですが、そのあたりなども。

 とにかく気軽に書いていきたいな~という宣言に近いです。

 

 ゆっくりがんばっていきますので、よろしくお願いします。

 私は人が好きです。だから人と人に相対的価値を見いだして境界線を設け、金に変換する商品をつくるのではなく、すべての人間は美しいという真なる小説を書きたいです。

 以上、些事についてのとりとめのない話でした。

 

 

 

【神谷京介にコーヒーをおごってみよう】

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 ko-fiという投げ銭サービスです。PayPalがあれば利用可能だと思われます。いただいたサポートはとりあえず名のとおりコーヒー☕一杯分ほどの休憩をさせてもらうために使いたいです。ドル表記ですが日本円換算で普通に支払えます。

 

 もっと巨大なお金はちゃんとお金を持っているところからもらおうと、また不穏な計画を立てていますがそれはそれで別途進めていきます。ko-fiで生計を立てようなどと考えてはいません。気軽なチップ文化が日本にも広まればいいかなという願望も込めて、いつもどおり、隣を気にせずとりあえずやってみるの精神で。

 

 いつもどおりしっちゃかめっちゃかな書き物でしたが。

 大好きなみなさまへ、どうぞこれからも気をつけて。