超時空の夜

作家/ちいさな出版社「世瞬舎」代表 

原子心母あとがきその① 九鬼周造「時間論」と円環状の時間

 あとがきをつけるかつけないか。これは作家にとって重要ではありつつもむずがゆい問題である。

 

 本作には実はあとがきをつけてません。さして意味はないのですが、なんとなく恥ずかしいから、あとは物語だけを読んでもらったほうがよいかなと思ったからです。でもやっぱり語りたくもあり、やはりむずがゆいです。

 

 少し前、性格診断サイトに「もっと安易なヒロイズムに浸ってもよい」と書かれてあって、なるほどそれもそうだなと思いました。よってこれから書くものもそういった安易なヒロイズムの産物かもしれません。要するに、語るにしても長くなるあとがきは別注にしてしまおうということです。

 

 

 私の小説には「時間」や「永遠」をテーマにしたものが多いです。それだけ自分の人生において重要なテーマでもあり、私は幼いころから常に、時間の儚さや一般的な通念における非可逆性……要するに二度ともどれない、タイムマシンは現実にはないよねということ……の悲しさを感じて生きていました。

 今でも口ぐせのように、ひとりごとで「あー帰りたいなー」とか言ってしまいます。仕事が辛いときとか、なんかちょっとめんどくさい用事があるとか、ひと息ついて泥みたいな味のインスタントコーヒー(ほめている)を飲むときとか、うれしいとき悲しいときいつにかぎらずです。そしてその意味は本人にもあまりわかっていません。ただ漠然と口をついて出るのです。

 

 ほんとうに帰りたいのかは、実際のところよくわかりません。20年前30年前などスマホYouTubeもなかった時代ですし、帰ったら帰ったで退屈だったり不自由だったりするはずです。ただどこかでそれを望む気持ちがずっとあり、ずっと常に小説を書く原動力となっていました。

 

 たとえば人はさまざまなものを望み、そのために努力をします。お金だったり、名誉だったり(いまどきにいうと承認欲求?)、友人や恋人、家族であったり。

 もしも私が望むものが「帰ること」だとするならば、それはつまり普通に考えれば万に一つも望みがないものです。

 まだ億万長者になるとかのほうが現実味があります。

 タイムマシンを自分で開発するという手もありますが、「ありますが」とか書いている時点で現実味はあまり感じていませんし、百歩譲って生きているうちにタイムマシンが現実に完成して、乗ってみて実際に過去に行けたとしても「ここはほんとうに『あのころ』と同じなのか?」みたいな哲学的な問いにぶつかり、自分の性格上、完全に信じ抜くことは難しいでしょう。

 

 つまり「万に一つも手に入らないものを望んでいる」、

 私の人生の底にはいつもその思いがあって、それはもう悲しいとかむなしいとかをも超えた絶対的な諦観でした。その諦観は常に私の小説の中にもあります。

 

 

 前置きが長くなりましたが、そんな私を救ってくれたのがこの一冊、とまではいわずとも、ひとすじの光を見いだすそんな方法もあるのだと考えさせられた(つまりそれを一般的に人は「救われた」とかちゃんとはっきり短絡的に言葉にするのですが)のが、九鬼周造の『時間論』でした。

 

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『時間の観念と東洋における時間の反復』という章(講演)では、まず冒頭において、

 

 もし「東洋的時間」について語る権利があるとすれば、何よりも輪廻(transmigration)の時間が重要であると思われる。輪廻の時間とは、繰り返す時間、周期的な時間である。

 

 とあります。

 

「輪廻」とは仏教になじみのある日本人にも聞きなれた言葉ですが、輪廻がはらむ因果律のゆえに、人が個々に持つ時間は永遠に繰り返されているのだといいます。

 生まれ変わりという概念がありますが、もし私が死んで、バッタに生まれ変わったとしてもそれは因果のゆえ、つまりバッタに生まれ変わるのは必然であったとするものです。

(本著内ではもっと端的に、虫に生まれ変わる人はすでに虫けらのような生を送っていたからだ、悪人に生まれ変わるのは悪行のゆえだ、みたいな言い方をしています)

 

 そう考えると、「AはAである」という同一律に支配されているのが輪廻説であり、そのゆえに、もしも一人の人間がまたまったく同じ一人の人間に生まれ変わるとするなら、それはむしろ輪廻の典型的な場合である、としています。

 

 そして、時間というものは永遠に周期していく円環状の時間だから、繰り返される輪廻の中で、必ずどこかでまったく同一の私、まったく同一の人生が繰り返される、しかもそれは「生まれ変わり」だから「AとA'」ではなく、言葉どおりまったく同一の「A=A」です。

 

 これであるならば、私の生はまたどこかで必ず繰り返されることになります。帰りたいと思っていた故郷の原風景が、必ずどこかで、たとえ膨大な無限に近い時間をかけても、どこかで繰り返されると、そしてそのとき、まだ無垢であった私がその幸福でありながら不幸でもあり、退屈でありながら美しいその時間をふたたび生きていく。

 

 

 こういった「回帰」の思想を信じるか信じないかは人次第というか、まぁ人前でいうとちょっと心配されるくらいの代物ではあるのですが、私はどこかやっぱりこころにとどめています。

 絶望ではない、ということ。「万に一つ」と「万に一つもない」とでは意味合いがまったくちがいます。私はそこに安らかさを感じ、まだこの私に生きて書き物をするだけの体力を保証してくれます。

 

 

 さて、この円環状の時間という概念は『原子心母』全体を通してのテーマでもあります。

 もしかそれを感じずとも読み切れるのですが、書いた人は『時間論』を読んでいたのだな、という別注があると読みやすく、批評しやすくなるでしょう。

 

 でもたぶん重要なのは、カフーやモアは『時間論』を読んでいたとしても読んでいなかったとしても、彼らの生そのものにおいてその境地にたどりつきそうだったという点なのです。そのような刻々が『原子心母』には書かれているはずです。

 

 

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