虫が好きなことはこのブログでしょっちゅう、それしか書くことないんかいというほど書いています。特に、蛾が好きです。
『原子心母』では、ヤママユという大型の蛾の幼虫を三人が育てている場面や、要所において蛾が彼らのそばに留まっていたり、飛んでいたりしている場面があります。蛾の魅力はたくさんあって、でもどこが、というのを箇条書きするのともちがいます。これが不思議なことです。
セスジスズメというやや大型の蛾がいます。翅の形がグライダーみたいでとても精悍な蛾ですが、3年ほど前に幼虫をひろってきて育てたことがあります。思えばこの出来事が、虫をよく観察するようになるきっかけであったと思います。
とはいえ別にそれはありふれた出来事で、2匹ひろってきて、なんの葉を食べるのかを調べて、飼育ケースにいれて、日に日に成長していく大食漢ぶりにびっくりしつつ、いつしか蛹になり、1匹はそののち寄生虫が入っていたので死んでしまい、もう1匹は無事に羽化しました。
幼虫→蛹→蛾という一連の流れはいつ見ても感動的で、そしてちょっとありえないほどの大胆な変身でもあります。黒い巨大な芋虫が、精悍なグライダーのような成虫に。しかしこの流れ、を変態というのですが、それは当の本人たちにとっても命がけの行為であり、脱皮や蛹化がうまくできずに死んでしまう幼虫の割合は多いと言われています。また、先にも書いたように寄生虫や、自然界では捕食者によって死んでしまうことももちろん多いです。モンシロチョウの研究では、100の卵のうち成虫になるのは1か2ほどだそうです。ただ、それは当然のことでもあり、1か2以上に生き残ってしまえば外は今頃、蝶や蛾だらけになってしまいます。また捕食者や寄生虫に食べられて自然界の糧となることも大事な仕事です。成虫にまでなってその美しい姿を見せてくれるのは奇跡であり感動的ですが、そうでなくともほかの虫やほかの鳥、植物や微生物の糧となり、どこかでちがう奇跡を生んでいるのかもしれないし、こうした循環を考えると、自然界への憧憬と畏怖が湧いてきます。
擬人化という言葉があり、もちろん絵本などでは、虫が人の言葉をしゃべり、人のような倫理観で生きているさまが感動を呼ぶ作品はたくさんあります。と同時に、彼ら昆虫がどのような感情で、どのような気持ちのもとで生きているのか、と考えると、これは人とはまったくちがう構造のもとで生きているのではないのかなとも思います。
彼らは自分自身がひとつの個体であるという意識が曖昧か、あるいは持っていないのかもしれない、とか思っています。群体として、あるいは種として、あるいは自然界の一部として、なにか地球そのものの調和のための糧になることにためらいがないような気もするのです。死を恐れないというか、種を残すことだけに注力しているけれど、諦めるときは潔いというか。そしてどこか、その先の未来を知っているようなふるまいに見えるんです。それは特に蛾のことです。これは僕の感覚的な話でしかないのですが。
ことに、蛾はそとの壁とか手すりとかにべたーっと留まっていて、それをふいに見つけてびっくりすることが多いですよね。このステルス感が蝶に比べて人気のない原因でもあるはずです。ただ、このびっくり姿こそ蛾の魅力のひとつだと思ってます。いつからいたの? っていうこの姿です。もしかすると昨日からかもしれないし、3日前かもしれない。あるいはもっとずっと前からそうだったのかもしれない。そこに永遠性を感じて、虫にしかない、人の認知能力ではとどかない不思議で美しい領域を想像してしまいます。
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もっと巨大なお金はちゃんとお金を持っているところからもらおうと、また不穏な計画を立てていますがそれはそれで別途進めていきます。ko-fiで生計を立てようなどと考えてはいません。気軽なチップ文化が日本にも広まればいいかなという願望も込めて、いつもどおり、隣を気にせずとりあえずやってみるの精神で。