超時空の夜

作家/ちいさな出版社「世瞬舎」代表 

走る馬の脚

 真実、事実などという言葉を見るにつけ、思い出す話がある。

 

 ある画家が、走っている馬の絵を描いた。

 ところが、同じ時間に同じ場面を連続写真で撮影してみると、撮れた写真のどれひとつとして、画家の描いた絵と同じ瞬間はなかった。画家の描いた絵は、実際にはありえない脚部の動きをしていたのだった。

 それを画家に問うと「いや、これこそが真実、走る馬の絵なのだ」と譲らない。

 疾駆する馬の姿はたしかに、コマ撮りで写されたどの写真よりも「走っている」状態を表しているように見えた。自分たちの目で見るかぎりにおいて、画家の絵のほうがしっくりきて、連続写真はどこかぎこちないような印象もある。

 といった話。

 

 

 この話の解釈は人それぞれだと思うが、なんとなく的な感想でいうと、人それぞれに正義や真実があるんだなぁ、といったものだろうか。また、事実、の観点でいくと、写真のほうに軍配が上がるというか、ある意味画家はうそを描いているのだとも感じるかもしれない。

 

 カメラやビデオの登場によって、あらゆる産業や芸術、ひいては人々の、世界を見る認識が変わったとも思う。タイムマシンがSFの題材としてあらゆる人々にしっくりくるのは、時間が「一時停止」「巻き戻し(いまは早戻しか。世代差w)」「早送り」のできるものであると無意識に擦り込まれているせいもある。これは真実そうなのだろうか。あくまでも、カメラやビデオという機械がそのような機能を持っている、というだけであるはずなのだが。

 

 たとえば原子レベルまで拡大できる顕微鏡の機能がついたカメラを人に向けて構えるとして、原子の集合体であるはずの「カメラに写ったなにか」は、我々の真実の姿といえるのだろうか。

 

 などと、考えていた。

 これらの折り合いをつけるのが言語や文明であり、ひいては言葉なのだが、やはり未成熟であり、おそらく上の問答の延長線上に、いろんな不都合や軋轢が生まれていく。

 むずかしいな、と思う。