超時空の夜

作家/ちいさな出版社「世瞬舎」代表 

仕事のおもしろさについて

 私は昔から妄想なるものが好きで、ここまで生きてきた。いや、そんな誇らしげに書くほどのことではないけれど。頭の中でオリジナルのキャラクターをつくって戦わせたり、ゲームの攻略本だけ買って(お金がなくて買えないので)、頭の中で「こんなゲームなんだろうな」と妄想でプレイしていたりした。

 

 かえりみれば、これは、なにかやはり男女のメンタリティの差もあろうが、自分だけの小世界をつくって遊びたいという欲求のあらわれだったのでは? と思わないでもない。いまだにテレビゲームは遊ぶけれど、シミュレーションとか箱庭系のジャンルが好きだったりする。今のゲームはすばらしい。子どものころの妄想でしかなかったものが現実に、脳内よりはるかに鮮明な映像でプレイできるわけだが、いっぽうで「妄想力が鍛えられないのでは……(; ・`д・´)」的な憂慮もある。

 これは杞憂であると思いたい。子どもたちの想像力をあなどってはいけない。きっと今の子どもたちは、私たちの世代よりはるかにスケールのおおきな、現実を超える妄想をつくってくれるはずである。

 

 

 なんだか前置きのような本文のようなのがつづいたけれど、もう少しつづく。

 さてこの妄想が自分の中でおおきく結実するのが小説という行為になる。

 

 これはなかなかすごい。いまだに書いているくらいだから、いかに果てのないおもしろさがあるのだとわかる。

 小説の執筆がおもしろいのは、子どもの妄想がもう一段階、現実に踏み込んだ動きを見せるところにある。それは紙なり、PCの画面なりに出力され、「フィクション」が「現実」の領域に、可視的に姿を見せるのだ。そしてこの出力作業にはすさまじいエネルギーが必要で、そのぶん得られるカタルシスもおおきい。

 そして自由度が高い。

 いつも思うのだが、優れた映画やゲームや、あるいは小説やその他の本にふれたとしても、「結局、自分の求めているものは自分でしかつくれないなあ」となる。それがいちばんてっとり早いと思うようになる。

 なにかを出力する業を持っている人は、これくらいのおおらかさを持っていれば、私のごとく気楽に生きれるような気がする。

 

 最近は会社をやっているが、こちらは妄想→小説からまたもう一段階、現実に踏み込んだ動きを見せる。

 人やお金が果たしてほんとうに現実に存在するのか? といったちょっと哲学的な問いはあれど、一般的にいえば「フィクション」ではないと思われている「場所(現実)」から「フィクション」を想像してそれをさらに「現実」に変えていくのだ。

 どういうことかというと、資金調達のために毎晩、趣味のごとく事業計画書や試算表を作成したりしているのだが、これらは現実に成し遂げようともちろん思っているのだけど今現在は単なるフィクションでもある。2033年度の年商は2億数千万円で、粗利が……とか自分で書いていて「ほんまにできるんかいな」と思ったりもする。が、できないと思って書いているわけではもちろんなくて、いろいろ裏付けの資料も作成したりする。

 お金の動きだけではなく、会社としてやっていくというのは人の力を借りることでもあり、いちばん身近な社員に架空の会社沿革をつくって見せたりもした。10年後は……20年後は……100年後は……でこのとき社会がどうなっていて、本の役割がこうなっており……みたいな、そういうのを毎日見せられるマネージャーはなかなか大変だが、意外にもおもしろがってくれたり、それどころか一緒に進もうとしてくれるので、大変感謝している。そしてこの人にフィードバックをもらうという行為もまた一段階、踏み込む行為でもある。

 このように自社の未来を描く作業は、これは私にとって創作であり、物語であり、わりと小説と同じくらいおもしろいな、と思う。

 で、この物語を、人の身体を持った私やだれかがいる、この現実という空間で実証していく。しかもいくつかは達成している(本を出す、事業資金を調達する、本が人にとどく、など)ので、そういった意味で一段階踏み込んだ妄想だなぁと感じている。

 しかも事業内容が文芸出版社で、フィクションの文章が実体を伴った本になっておりそれを販売している……などなど、入れ子構造だったり反響のようだったりで、だいぶゲシュタルト崩壊を起こしそうである。

 

 なんかそういうことをやっているので、大変なこともあるが、とても楽しい。