超時空の夜

作家/ちいさな出版社「世瞬舎」代表 

水槽との付き合い方

 8月からベランダでメダカを飼い始めました。これまで水辺の生き物にはあまり縁がなかった私も、このメダカのおかげでたくさんの経験をさせてもらっています。

 水場とは案外どこにでもあるもので、用水路や、ため池や、近くに多摩川もあるし、支流となるちいさな川もよくあります。

 ふだん忙しく働いている私たちが見向きもしない場所に、一億とも一兆ともつかぬ生物が生きて死んでいく。それが水の世界のようなのです。

 具体的には、一ミリにも満たないちいさな微生物や、肉眼では見えないバクテリアなどが土や泥や水の中にたくさんいます。メダカやエビは、明らかになにもない(と人間には見える)場所に口をつついたり、手でかき集めたりしていて、その仕草に癒されます。

 

 ところで「ビオトープ」という概念があり、私はこれに最近とても惹かれています。 自然環境、生態系保護・復元の取り組みとして、ため池や河川などを管理されている方や団体などもいらっしゃるようです。

 

ja.wikipedia.org

 

 飼育対象の生物のみを愛玩することではなく、その空間の生態系の循環を観察していくこと(自然界であれば当然、メダカも被捕食者になりえます)、なるべく自然に近い環境をつくること、これを自宅で実践されている方などもいて、とても勉強になります。

 

 こういった目で外の世界を眺めると、汚い泥や、それを掬ったとき指先を這うイトミミズでさえいとおしく思えてきます。

 もちろん「きもっ」と感じることはあります。それは私が大好きな虫でもそうです。人間だからしょうがないです。ただ、その感情を捨てるのではなく、このような気持ち悪い生き物たち(イトミミズから見たら、人間もじゅうぶん気持ち悪いかもしれませんし)が、食物連鎖や土壌の形成などを通じて、この世界の生態系をつくっているのはまぎれもない事実で、それを意識するかしないかでおおきなちがいが生まれます。

 

 そういった観点で見ると、人為的な水槽(もちろんビオトープや、外の世界でさえ、完全な自然というものには遠い環境もありますが)は非常に制約をもたせた世界だといえます。

 実は、ビオトープの概念を知って以来、透明なガラスが張られた美しい水槽が、実験室にしか見えなくなってきてしまいつつあり、ちょっと悲しいです。さまざまな制約がそこにはあり、そのために人間が手を入れて水槽を掃除したり、餌を投入したりをせざるを得ないのですが、その手は、魚にとっては異様な巨人の手にほかならず、なんとも不思議なのか、恐怖なのか、はたまた慣れてしまっているのか。

 

 私たち人間が今、ここに住んでいる世界は、水槽となんの変わりがあるのでしょうか。

 私たちは文明がつくった社会というシステムの中で、たとえ無職の人であろうと、死ぬ間際の人であろうと、戸籍がない人であろうと、全員が歯車となり動いています。これはとても気味が悪くもあり、しかしそれなしで生きていけない厄介な軛です。

 私のような自営業であろうと、作家であろうと、おおきく見れば、虫であっても細菌であっても、地球とか宇宙とか、そういう器という考え方を取るならば、そこで生きている以上、すべての成分がすべて世界の歯車なのかもしれません。

 

 

 と、こういった目で外の世界を眺めると、かわいい生き物も、醜い生き物も(何度も言いますが、たぶんイトミミズは人間のことをきもっと思っています、おそらくそれは平等なのです)植物も石ころも、すべてが等しく私の同胞だと思えてきます。

 

 

 

 人間嫌いにならないように、ちゃんと話します(人と)。