超時空の夜

作家/ちいさな出版社「世瞬舎」代表 

確定的でない

 昔からスポーツについては、自分でやるのも、観るのも、あまり得意ではありませんでした。今でもそうです。

 ですが、格闘技は昔からよく観ていました。K-1など好きでしたし、数年前からはMMA総合格闘技)をよく観ています。

 

 おおきくは、舞台の上での一度限りの勝負と捉えているのかもしれません。また、一人でやるものではなく、相手がいるものです。これはとつもなくすごいことで、私があらゆる舞台に立つ人を尊敬しているのも、この理由からかもしれません。

 替えが利く場所にいないのは、明らかに人為的でありながら、自然界の縮図ともいえる独特の状況です。人間の業を感じずにはいられません。「勝ち」と「負け」が人為的に決まるのは、残酷でありながら、それなしに人も、ひいては自然界も発展していかず、必要でありながら、やはり残酷で、ひどいものです。

 

 推しの選手が悔しくも負けたときは、やはり大変な気分になります。そしてその大変な気分が耐えがたいので、推しをつくらない、という平静な気持ちを徹底しようとしているところです。

 これは野球とかさまざまに言えるのかもしれませんが、いえ人生とかそういうところにも行き着くのかもしれませんが、推しやひいきというのは、究極的に自分が直接の作用を起こせないもどかしさがあります。既にその時点で、他人に自分の一部を明け渡しているとも言えます。

 もちろん、自分ですべてを決めたからすべて自分の思うように進むのではないのですが、人間である以上、なにか確定的な、どこかここは自分の責任で進んでいる、という状況のほうが最終的に、特に私の個人的な感覚としては幾分安らかになります。なにをも他人や世界に委ねたくない、という領域は、狭くとも持っておくに越したことはなく、楽ではないときもありますが最終的には安らかです。

 このような話をすると、結局人間に自由意志はあるのかみたいな話に発展していくのですが(私はないのではと思っています)、それも含めて、ちょっと優秀な駒くらいに自分のことを思えれば、さらに輪をかけて気が楽になります。