超時空の夜

作家/ちいさな出版社「世瞬舎」代表 

なぜ虫が好きなのか

 晴れた日は散歩がしたい。

 いつしか春になってからだいぶ日が経ち、あちこちに花と虫が見られるようになった。写真を撮ってTwitterの別アカウント(虫と花の撮影専用)にあげたり、ネットとか図書館で種類の特定にはげんだりしている。

 

 虫のなにが好きなのか。

 単純に、かっこいいとか、かわいいとか、子どもと一緒に遊べるにとかももちろんある。

 もう少し込み入った話をすると、私は虫という生命にあこがれというか、畏敬の念を抱いている。

 

 

 人間ほど醜い生き物はそういない。私は数ある生物の中で人間がいちばん嫌いかもしれない。死の恐怖を知っている生き物は、いさぎよくなく、しぶとい。感情と、私は個体であるという確固たる意識が、さまざまな問題を起こす。

 

 虫、とりわけ昆虫はその対極にいるような気がしてならない。ただしこれも人間の私の、醜い想像ではあるのだが。彼らは個より群および種のために生き、死なないことよりも次の生命をつなぐことに注力する。

 

 アブラムシを最近よく見ている。彼らはよく茎に集団で密生しているが、あれらのほとんどが単為生殖で増えたクローンだという。いくつかちがう個体がまじっているのかもしれないが、茎に密集している数十匹がすべて同一個体から生まれたクローンの場合もときにはあるだろう。

 アブラムシはテントウムシの好物でもあり、よく食べられている。アブラムシはひ弱な虫で、テントウムシから逃げるでもなく、戦うでもなく、ただ食べられている。次々と食われていく。テントウムシが満腹になるまでそれはつづく。

 しかしこれがアブラムシの生存戦略でもある。

 アブラムシは単体ではひ弱な代わりに、すさまじい繁殖力を持っている。数十、数百が餌になろうと、そのうちの一匹が子孫を残せればそれでよいのだ。彼らは不本意に食われているのではなく、必然的に食われ、それが生態系にぴたりとはまっているだけなのだ。

 

 隣で、自分と同じ顔をしたクローンが食われていて、次は自分の番と思う恐怖はどれほどのものだろう。

 と、死の恐怖を知っている人間であれば思うが、彼らにおそらくそのような思考はないし、個体という意識もないのかもしれない。

 集合意識というか、群全体でひとつの動きをつかさどっているようにも見える。

 だれが抜け駆けするでもなく、群としての最適解を、脳ではなく反射や本能で導き出し、何の迷いも躊躇もなく実行する。煩悩などとも無縁である。

 私は彼らがうらやましく、しかし「では生まれ変わったら虫になりたいか」と言われると、いや人間がいいなあ、と思ってしまうこの醜さが悲しい。よって、畏敬を抱いて見ているしかない。

 

 ところで個体とはなんだろうか。さきほど、虫は個ではなく群単位で動く、集合意識的なのがあるのではないかと書いた。ありえない話ではないと思う。

 僕は常々、宇宙全体でひとつの生命なのかもしれないとも思うし、生命という定義は人間がつけた単なる線引きにすぎないとも思う。また、世界と生命は私が小説の中で探求したいテーマのうちかなりおおきなウェイトを占めるものでもある。

 

 虫。この不思議な生命。

 宇宙と同じほど深いなにかが、このちいさい身体に宿っている。

 などと考えるのは、こうして文章を書いたり思索を深めたりするときのみで、たいていは、かっこいいーとか言いながら眺めているだけである。