超時空の夜

作家/ちいさな出版社「世瞬舎」代表 

出版社のこれまでとこれからのこと

 私たちの出版社「世瞬舎」は、みなさまのご支援のおかげをもちまして、開設から2年が経ちました。イベント限定の冊子体なども合わせると刊行点数は10を超え、今でも新作を制作中です。
 この2年間、本づくりに関わることができたのはとても幸運なことでした。

 

 ここでちょっと2年前に立ち戻りまして、自分自身の備忘録を兼ねて、今までの歩みを振り返ってみます。

 

 

 2020年8月、世瞬舎が開設されました。

 当初は「ロゴ」と「出版社名」だけのシンプルなスタートでした。

 

 設立した目的は『未来の言葉』という小説を本にすることでした。

 本作の制作と並行しながら同年2020年10月にはクラウドファンディングを実施し、多くの方からの金銭での支援・応援をいただきました。そして2021年1月、本作は発行されました。

 

 この作品は、私がおよそ10年間、いくつかの小説を書いてきた中での集大成でありながら、同時にあらゆる物語を「過去」と「回想」に捧げてきたこの美しくも膨大な時間に対して、肯定も否定もせず「今、ここ」へ、そしてまだ見ぬ未来へと押し上げるとても重要な作品でした。 

 本作の作中には「延長」という不思議な概念が登場します。それはまだ見ぬ未来と、これまでたどってきた過去とをつなぐこと、そしてその意思そのものです。かえりみれば、思いがけずですが、これはまさに「本」そのもののことを書いた作品になってしまったのだといつしか感じました。

 はじめての本づくり、そして本が人の手にとどくという経験が、作品そのものと交わりました。自分自身の足跡が、たしかにこの一点のみで赦されているという不思議な感覚は大きな感動であり、そしてその後の探求を望むになんの不足もないものでした。

 

 いつもの癖で少し小難しく書いてしまいましたが、整理しますと、クラウドファンディングが無事終わり、その資金を持って『未来の言葉』を少部数出版したのが2021年初頭。

 その後の時期ですが、精神疾患を患っていたこともあり(現在も通院中ではあります)これから先どうするか、ちょっと右往左往していた時期がつづきました。これが2021年の大半でしょうか。

 しかし、まだ私にはこの本づくりの旅をしていきたい意思があったようです。

 

 一冊の本をつくるのは大変なことです。時間も作業も、そしてお金もそうです。特に単行本は、金融機関さまからの融資を受けて制作しました。制作に携わる方々もいちから探し、毎日の大変な作業の中で学びを得ながら、無事にまた作品が本となりました。

 これらの作品が発行されたのが今年、2022年の5月、6月ごろのことでした。

 

 

もしも世界から「I love you」という言葉が消えたなら
百瀬七海 著

「想いを伝える」。シンプルでありながら私たち大人がなかなかできないことを、懸命に実行していくこの子たちがまぶしいです。

 

 

 

アイリダ
岸正真宙 著

若者たちのある種普遍的なテーマである「自分」とは、という探求にシステムをぶつける試みがなされています。実はちょっと斜め上の巨大企画が現在進行中です。

 

 文芸誌「世瞬」は、Vol.1(2021年5月)、Vol.2(2021年11月)、Vol.3(2022年5月)をこれまで発行しました。

 これらの作品の共通点としては、ほぼ思いがけずですが、世瞬舎の旗を汲み取っていただいたのか、人生の貴重な一時期である「青春」にスポットライトを当てた作品が多く集まったことでした。
 そしてよく考えれば、『未来の言葉』をつくるときもそうでした。私はどうしてか、作中の彼らと同年代、高校生ごろの人たちを将来の読者としてイメージしているところがありましたが、その明快な理由は自分でもわからずにいました。

 

 

 また、こちらはもっと現実的なことになるのですが、2021年9月、正式に開業をしました。屋号として「世瞬舎」を取得し、いよいよがんばってやるのだ、という自覚も生まれつつあるころから、およそ今日にいたるまでは一年余りです。

 

 働く過程で心身の調子を崩してしまったこともあり、当然(?)私の中で、働くという作業にいい意味を持っていない部分が大半でした。

 私が希求している小説の世界とまったく関係ないことに時間を割いていることへの焦りや、言った本人は昭和のおじさんマインドで何の気なしにでしょうが、家族を人質に取られたように受け取ってしまう発言もありました。ここから脱出するには、と数年がかりで考えて、ようやく心身を壊しながらも強引に突破したというのが正しいです。

 

「好きにさせてくれ」「そっとしておいてくれ」「本だけつくらせてくれ」のような非常に切迫した気持ちからはじまったこの活動ですが、さて実際に本が世に出て、それが世の人たちにとどく工程がはじまり、本そのものが人と私の世界とを「延長」していく様子を目の当たりにしました。

 上述したように『未来の言葉』は、作者には思いがけず、本と出版そのものの性質を包含した物語となっていることにも気づかされました。

 

 その中で感じたのは、自分の内にあったものが外に開いていく感覚。これはとても残酷で、私はいまだにこれを手放しでほめることはできませんが、その「外に開く」ことを少しずつ受け入れてもよいのではないか? とも思いはじめてきました。

 

「外に開く」ことはまさに出版そのものです。そしてそのポテンシャルをこの出版社は持っているのかも? と思いはじめたのは、ここ数か月でしょうか。

 

 

 私はどうやら、ここまで私を導いてくれた、私を知と想像の旅へといざなってくれた本の世界そのものに、恩返しをしたいようなのです。

 

 人の人生を良い悪いと評価することはできないので、自分自身の人生も特に評価はしませんが、特段、特に中学・高校ほどにおける私は(時間軸があっちこっち行き、すみません)自ら心を閉ざしていたことも相まって、だれかが手を差し伸べてくれたとか、この人は恩人だったとか、そういうので思い当たる人はいないです。それどころか、デスノートを拾ったらフフフみたいな人ばかりが思い当たるような感じでした。

 そんな中で、私が唯一恩人と思えるのは「本」だったのです。

 ここがちょっとおかしな点かもしれません。人だっつってんのに。

 

 中学生ごろからでしょうか。手ひどく自分を否定されたたくさんの経験から、私は「何者かになって成り上がりたい・そしてこの田舎を絶対出る」といった意思を持つに至りました。

 その意思を持ったまま、特になにかが起きるわけでもなく呆然と過ごしている時期もつづきました。

 私はなにか特技があるわけでもなく、スポーツや勉強ができるわけでもなく、友だちも0人だったためおしゃべりどころか会話をする人もいないといった状況でした。しかしその中で野心だけはあるのが困ったところです。

 

 高校二年生のころ。いつもどおり、なにかを得たいと思っていたときに「小説家」がふと思い浮かびました。

 そういえば、私は文章がうまいわけではないけど、文章はあまり苦もなく書けたりもしました。案外いけるのではないか、と。このように、まず私のスタートは「小説を書きたい」ではなく「小説家になりたい」でした。捉えようによってはかなり嫌な奴だなと思います。

 

 ところで、「なりたい」と「なる(なった)」が地続きではないのは世の常です。これは世の中のとても残酷な部分です。私はそれを「なる(なった)」にせんがために力を尽くしました。具体的にはたくさん書き、たくさん読みました。

 いちばんはじめは、図書館に行って、これから自分が応募する公募賞の受賞作や、芥川賞の受賞作などを借りて読むところからでした。

 この頃の鮮烈な記憶として残っている代表的な作家でいえば、綿矢りささん、阿部和重さん、そして村上龍村上春樹の両氏などでしょうか。特に村上龍さんは一時期かなり私は影響を受けていました。

 

 これらの経験は、日常の生活範囲以上にものごとを考えている人がこの世の中にはいるのだなということと、文学というものの底の深さを私に教えてくれました。

 私はそれまで、小説や映画やアニメなどのあらゆる作品というものが、人を感動させるとか、良い気持ちにさせるためにあるものだと思っていました。しかしそうではないようなのです。

 

 私が熱心に読んでいる伊藤整の『小説の方法』や『小説の認識』といった著作に共通する文脈があります。

 結局、文学とはなにか? についてのひとつの明快な答えです。

 

「秩序に対する生命の抵抗」

 

 秩序に対する生命の抵抗、です(なぜか二回言いました)。

 

 伊藤整を読んだのは成人してからなので、当時この金言は知らなかったものの、おそらくそれに近いものを、たくさんの文学作品から私は感じとりました。

 そしてこの形式……文学・小説という形式であれば、私は私なりの「生命の抵抗」を表現できそうだ、とも感じ、それはさらにいろんな本を読むにつれ確信めいてきました。

 

 当時の私を取り巻いていたのは、文学からさまざまな「生命の認識・認知」「秩序の中で生きる喜怒哀楽」を学ぶ中で見えてきた私なりの問いでした。

 すなわち、なぜ私は今苦しいのだろう、そしてなぜ私は、とてもあのころに還りたいのだろう、と。

 あのころというのは、幼少期や、あるいはそれ以前の記憶です。私はそれらをテーマにして小説を書くことを決めました。

 

 ただし無学ではいけません。私が行う問いは、すでにだれかが解答を得ている可能性もありますし、ヒントもたくさんあるはずです。人間のことをテーマにする以上、あらゆる作品あるいは人生経験もすべて学びになりえます。こうして私はさらに読書に没頭することになりました。

 

 このころ(高校三年生くらい?)特に印象に残っているのは、芥川龍之介太宰治ドストエフスキー、ダンテの『神曲』、哲学・思想もいろいろ読んでみましたが、あまりに小難しいので(それでもカントの『純粋理性批判』は100意味わからない状況で読み切りましたが)記憶にとどまるものはあまりないですが、ギリシア哲学特にプラトンソクラテス)の著作はとても明快なので、わかりやすく糧になりました。

 

 この時期に読んだものの100のうち99はほぼ頭から抜けていますが、それでよいと思っています。世界にはこれだけの数の本があり、思想があり、それらが人類の歴史をつくってきたのだという認識を得るには十分でした。

 

 諸外国はわかりませんが、日本の特に高校までの教育は暗記教育ともいわれたりしますね。いい国作ろう鎌倉幕府、みたいな。さて、これはいけません。鎌倉幕府とその時代にはちゃんと人がいて、生活をして、戦をして、生きていたのです。そしてそこから時代を経て今の私たちがあるのです。それを感じさせないのは、ちょっといけません。

 私が本を通じて学んだひとつにそれがありました。

 

 あと国語のテストで

 太宰治      羅生門

 芥川龍之介    人間失格

 夏目漱石     こころ

 ※線で結びなさい

 

 みたいなのあったかと思いますが、これまじでなんになるのでしょう。

 あと作者の気持ちを書きなさいみたいなのもだめです。令和と明治では時代背景も人々の規範もちがいます。そ(略)

 

 

 

 長くなりすぎたのでまとめますが、

・この世には本がたくさんある

・一冊の本には一人の人生、ひとつの世界がある

・文学は「この世界で生きる」ことのヒントが詰まっている

(この世界で生きる「ため」のヒントではないです。それは実用書であって文学ではないです。よって小説を書くのなら、この世の中になにかしら不満や恐怖や問いがある人が向いていると私は思います)

 

 このように、本はたくさんのことを教えてくれて、私の中の世界はとてもとてもおおきく広がりました。もう「世の中なんてつまらない」と中二病めいた発想をすることもなくなり、いつしか「成り上がってやる」という目標よりもはるかに高い目標(私なりの小説を書く)をつくれるにいたりました。

 そして今、まさにこの本に関する仕事に従事しているのです。

 感謝は尽きません。よって私は本を恩人だと思っていますし、この本の世界に対して恩返しがしたいとも思っています。

 

 このような過去のことと、世瞬舎の出発から現在に至るまでの活動の中でひとつのリスタートを切る、出版事業として社会に貢献することを綜合していった結果、今回プロジェクトのサブタイトルにもあるように「今よりもっと、本が身近な社会へ」という言葉が生まれました。

 世瞬舎の本だけではなく、この世のあらゆる本をという意味です。特に、私が本と出会った時期と同じ世代、高校生ごろの方たちに、本とよりよい形で出会い・あるいは再会して、本が好きになってほしいと願っています。

 それを出版物という形で表現するのが、今回の『世瞬 Vol.4』になります。

 

 

 どんな事業もすべて大変であるはずですが、当社もまた、順風満帆とはいかない部分がたくさんあります。

 私は今回のプロジェクト、そして『世瞬 Vol.4』の出版を、私たちのゴールではなくスタート・あるいはリスタートと定義しています。

 ここからやれること、やるべきことが無数にあります。私には書き残さなければならない作品があり、世瞬舎には進んでいくべき道があり、そしてそれはこの社会によい価値をもたらす可能性がとてもあると考えています。

 

 よく私自身について「夢をかなえた人」「好きなことを仕事にしている人」とほめていただく機会があります。それはとても光栄な言葉なのですが、一方、私はここで人生あがりだとか成功したとか思っていません。「ちいさな出版社で生計を立てる」ことが私の人生のゴールではないです。

 まだ夢の途中であり、しかもほんの数歩を踏み出したばかりです。私をここまで導いてくれた本の世界に対する恩返しは、まだまだ全然足りていないのです。

 

 

 今、私は本当に恵まれた立場にいます。自分の信じる事業を進めることができて、自分が書くべきものを書ける。そして一人ではなく、どうしてかたくさんの人たちが一緒にいてくれます。

 それでも足りないと言い続けるのは、本当にどうしようもなくむなしいことで、いつも申し訳なく思っています。

 

 今、私にできるのは、それを受け取らせていただいたら、とても楽しい未来をお返しできますよ、と述べることです。なぜだか確信もあります。ただ、なんにせよ活動をつづけるにはリソース(人や時間やお金)が必要になり、残念ながら今の当社はそれが足りていないです。なのでこうしてクラウドファンディングでご支援を募っています。

 

 気づきはじめてきたのですが、私は作家としてはこの上なく天才的ではあるのですが、その他に関してはかなりポンコツです。私には未来の道すじばかりがあり、今現実のものごとをどうこうして整理する能力に欠けているところがあります。そしてそのフォローを今までたくさんの人にしていただきました。

 

motion-gallery.net

 

 

 未来へ向かうリソースをいただきたいです。

 ほんの少しで構いません。一人一人が少しずつ、おもしろそうだから協力してもいいな、という範囲で。

 膨らんだ分は必ずお返しします。みなさまからいただいたリソースの分だけ、楽しいことができます。

 

 クラウドファンディングは残り3週間あまりですが、このようなことを思いながらも、毎回こんなに悲壮感を漂わせても大変なので、ここからは楽しくいきたいです。

 そう、なにより私たち世瞬舎は、本づくりとこの活動を楽しんでいます。小難しい話はあとにするとして、なにより本と小説は楽しいです。創作もそうです。

 それらのことを発信していくちょっとしたイベントも、二つ三つほど考えていますので、少し待っていたければと思います。

 

 では、また本づくりにもどります。