超時空の夜

作家/ちいさな出版社「世瞬舎」代表 

過眠、物語、強迫観念など

 こんにちは。更新のたびにご無沙汰しています。

 最近は過眠傾向(というので合ってるのか?)で、しかも夜眠れない……4時近くにようやく寝れて気づいたら午後みたいな感じです。夜勤の影響もあると思います。

 ただなんとなくエネルギー不足というか、外に向けて行動できないような感覚もあり、またうつ傾向が復活してきたのかな? ちょっと心配です。

 本づくりもなかなか進まず、みなさまへの連絡もうまくできず申し訳ないのですが、あまり自責にも他責にもならずにいようと思います。許し合っていければいいです。

 

 こうでなければならない、という規範意識が高い時期も私にありました。つい最近までかも。作家とはこうであらねばならない、など。

 ただ、必要最低限の場面以外は、それをわざわざ公言せずともよいのでは? と最近は思いはじめて、もっともっとゆるく、ゆるい印象で、柔和な人と思ってもらえたほうがよいので、ちょっとずつ意識しています。

 

 やっぱり寛容ではない人はちょっと苦手みたいです。

 

 最近は読書もよくしています。今は「出版と権力 講談社と野間家の一一〇年」(魚住昭 講談社)を読んでいます。講談社の創業者 野間清治の半生を清濁併せて描いている作品で、600ページ超、かなり読みごたえあります。野間とその周辺の人物たちの半生は、そのまま明治期の出版・マスメディアの勃興の歴史そのものでもあり、勉強が進みます。

 

 今の私にとって、いちばん調べていきたいテーマが「物語」です。これは以前にも一年くらいかけて充電期間中にやっていきたいと発信したことでもありますが、意外と半休眠のような現在でも進められています。

 大正から昭和くらいまでの、現代より一歩手前ほどの時期の最重要な「物語」はマスメディアだと仮定していて、今はそこを調べて追及していきたい気持ちです。

 

 時代によって「物語」は変遷していくといった考え方を今の私は採用していて、調べて自分なりに思想を構築していけば、「少し先の未来の物語」として自分たちの出版社がどう動いていけばよいかが明確になるのではないかなと思っています。

 

 強迫観念みたいなものが強い傾向にあって、「今日は進んだだろうか」「最近は進んでいるだろうか」を気にしすぎて、まぁだいたい世の中のタスクなんて基本的に後れがちになるに決まっているのはみなさまもよくわかるかと思いますが、その結果気が滅入ってしまうという状況に陥ることが非常に多くて、これはだめだと感じていました。

 かといってゆるく行こうがんばりすぎないようにしようとしても根本の解決にはなっていなくないか? とか感じてううと頭を悩めることがしばしばでした。

 でした、と過去形で書くとそれはもう解決済みのように聞こえるのですが、とりあえずゆるく行ってみて、いつか時が来るまで考えごとでもしていようという気に今はなっています。過眠もその結果、身体が引っ張られているのかもしれません。

 

「物語」とはなんだろうと、これはもちろん一言で言い表せないのですが、あえて一言でいえば「因果(因果関係の理解)」なのかなと今は仮定しています。もっと調べていけばまた仮定が変わるのかもしれませんが、けっこういい線はいってるのではないかなとも考えています。

 

 たとえば大昔、雷は神様の怒りだと信じられてきました。雷が森に落ちると火事が起きますが、その火は原始人類にとってとても有用な道具になります。まだ火を自力で起こすことができなかった人類は、神に祈りをささげて雷を待っていたはずです。

 

 今は科学技術が発展して、お祈りをささげれば雷が起こることはないだろうと思われていますが、この因果関係を物語化できるのが人間の特質であり、それが現代に至るまでつづいているのではないかと仮定しています。物語化して共感を生むものは大勢に受け入れられるので、それで能力をスケールさせることができるわけです。

 今でも政治であったりうわさ話であったり煽情的な投稿であったり、お金や科学など「物語」は至るところに溢れています。

 それらは「こうだからこうなった」の因果関係に依って立つものであることはすべて変わりません。人の認知能力として因果(物語)は現状最適で、なにより安心感があります。

 今一度、私たちはなにかの因果関係を持って蛇の血をべたべたと身体にくっつけていたころの人類と根本的には変わっていないことを自覚しなければならないのか、そこはまぁ「こうして進歩してきた。だっていまやインターネットもあるし民間人が月に行けたりしてるじゃないか。僕たちは原始人じゃない!」という物語を採用すべきなのか。

 

 もしかすると自分たちはあるいは自分は巨大な妄想にとりつかれているのかも、と思いながらなにかを判断して暮らし続けられるほど人間の能力は高くないです。

 

 ただ、その絶望を受け入れつつなんとかやっていくにはどうすればよいかなぁと、それが私がこの社会に貢献できる数歩であればよいです。

 

 強迫観念が断ち切られるというほどではなくとも、ゆるまるにはやっぱり「進んでいる感」もそうだけど、人との縁もそうだと思えています。少し会話をして、受け入れてくれるといった感覚を持てるだけでなんだかとても安心します。だからやはり、つかれるけどその先の広がりを信じて、話しかけていこうと思います。