超時空の夜

作家/ちいさな出版社「世瞬舎」代表 

2023.10.24

 世の中がキモい。キモ過ぎる。金もキモい。

 だれだこんな世の中にしたやつわ。

 

 最近は、というか毎日こんなことを思うのですが、先日も話したように私個人の事情など些事に過ぎないのに、それに右往左往し、うつも再発し、督促に追われ、家賃保証会社からクソキモい電話を受けてしまったり、毎日地獄のようです。

 些事に追われていると、自分の脳が委縮していくのが明らかにわかります。ほんとうに悲しい。

 私は些事のために生きてるんじゃないのに、と思いつつも、しょせんそれだけの人間であったのだと思い知らされています。相当、前世で徳を積み忘れたのでしょう。

 

 小説で気をまぎらわせているという表現を使おうとしたのですが、それもどこかおかしい。なぜこちら側が負であり世の中が正であるかのように気を遣わなければいけないのか? 

 神と人のいない世界に用事はないのですが、いえ、今は関わる気力がないと言った方が適切なのか、そんな気持ちです。

 

 世の中はきもいですが、私は人を憎んでいません。だれも悪い人はいないのではないか? とさえ思います。いつも私はどこか総体として見る癖があるようです。いろんな記憶があるにせよ、個人的な復讐心には向かわず、人々の総体的な、広く大きな、しかし中核の部分をどうにかしたいと考えます。のんきなものです。些事がそれの邪魔をします。

 ただ、些末なことほどいとおしくもあり、生きている実感でもあります。おそらくそこに差はなく、子どもの寝顔を眺める幸せもやがて遠い宇宙につながり、また些事に帰ってくるのだと思います。でもやっぱり私は人間なので、些事をやるのはいやです。きもい。そんな暇ない。

 

 今日はどうかわかりませんが、自分のペースで、好きな人に話しかけたいです。でも話しかけてくれるのはとてもうれしいです。もう少しゆっくりします。

 

 

 

2023.10.22

 いつもどおりのあいさつと化していますが、お久しぶりです。

 1週間くらい仕事が手につかず、自宅待機していました。またうつ傾向が強くなってきていたようで、これはまずいなぁと思って、本格的になる前に休んでいました。

 数日経つと落ち着いてきて、かねてから取り組んできた小説の構想を練ったり、読書や調べものができてきました。そのことでやっぱり、私はなにも頼まれなければ小説を書きたいのかなぁ、などとあらためて思ったりもしました。

 

 後れている「世瞬」の制作含め、今日から徐々に再開していきたいのですが、今後もこのようにご迷惑をおかけすることはあると思います。これはもう直せないのかもしれません。実行力という点で驚くほど欠けているなと感じます。エネルギーが少なすぎるというか、人にものを頼む行為が根本的にきついと感じています。

 

 現代社会においておおむね人に危害を加えない範囲での欲は肯定されている傾向にあります。有名になりたい、お金持ちになりたい、彼女がほしい、など。

 それがストレートであれば相手にも伝わりやすいのかなと感じます。

 

 私は、もっといえば人は、媒介する立場だと思ったりもします。出版と小説を通して、これから先出会う人、それは直接的にいえば読者であるはずですが、そこにとどけるための中間業だと思っています。それは作家にしてもそうです。

 ただ世間の風潮として、やはり自己実現という枠組みでアプローチしてしまったほうが圧倒的にわかりやすいです。むしろ現代はそれ以外の幸福を忘れている人が大半かもしれません。

 

 Youtubeで流れてくるクソみたいなCMや、SNSに流れてくる謎のご高説、職場に溢れるクソみたいな小言など……個人という尺度で物事を見る限りこの世は地獄に溢れています。それだけ満たされていない人が多いのだと思います。その近視眼的過ぎる物差しをこちらに当てはめないでほしいと強く思います。

 

 ただ一番の問題は私自身が社会で生活をしている個人だということです。媒介となり、隣人の力になる、それはだれもがどこかでできていることで、私自身もできているはずなのに、資本主義社会はそこに留まることを許しません。もっと金を持て、もっと金を使えと急かしてきます。

 結果、私自身が一番私に興味がないのに、個人としてどうにかしなければいけない問題が山積していきます。この大いなる矛盾がいつも私を苦しめます。

 

 私はよく自分を天才だと思うと言いますが、これは「だからすごいだろ」と言いたいわけではないです。せっかく天地から授かったものを、この天地人のために使わず、個人のさまざまな些事の結果、終わってしまうのがとても悔しいのです。

 授かったものをお返しする、それこそが私の幸福であるかのように思います。100mを9秒で走れたからといってなんになるのでしょう。とてもおもしろい小説が書けるからといってなんになるのでしょう。巨大な宇宙の視点でみると、70億分の1であってもそんなもの、まばたきほどの誤差でしかありません。ただしそれは人間が人間であるための、とてもいとおしい誤差であり、そんなことをどこかで言いたいです。

 

 少し前、こんな話を聞きました。「どこか下に見られる要素があったほうが人から愛される」的なものです。たしかにそうだよなと思います。私は端的にいうともっともっと人に疎まれたり、あいつだめだな、どうしようもないな、と思われたいのですが(そのほうがいろいろと楽なので)、その「思われ方」を上手にできればきっと世界が開けてくるなとも感じました。

 

 私自身が人を上とか下とかで見ないので、想像の範疇でしかないのですが、下に見られる要素だらけです。借金ある、仕事ない、離婚した、売れない、暗い、うつ病、約束を守れない、などなど。ただそういった個人としての要素になにより自分自身、興味がなく、うまくプロデュースすることができません。

 この評価経済社会を生き残るためには安易なヒロイズムにもっと浸るべきなのに、それがそもそもつかれるのです。頑張って適応しようかなとも考えた時期もありましたがやっぱり合わないことは徹底的に合わないです。いいからだまって自分という存在をラジコン操作したいです。でもそれはできません。子どもの寝顔を見たり、人としての幸福はやはり手放せないからです。

 

 矛盾は苦しいけれど好きでもあります。生命とはそれでしかないはずです。もやもやが晴れてしまえば、それはそれでちょっとおかしいです。だからただ明るく生きればよいのでしょう。

 

 とはいえ、外在的な要素を本当になんとかしなければいけないなと考えています。頭の中にあることを実行できない、それだけのリソースがない、人生のフェーズにズレが生じることが一番悔しいです。できるならば手伝ってくれる人を探したいですが、今のところなにも与えるものがなく、出世払いになってしまいます。ただ、多くの人の未来を明るくすることについて考えるのは、けっこう楽しいかと思います。

 

 私はなんだかんだ楽しくやっています。あんまり困っている感を出しすぎて「くれ、くれ」になるのがそもそも自分が辛いというのもわかってきました。だって自分はなにも欲していないのです。家族と友人と、楽しめるべき広大な世界がここにはあるので、十分なのです。

 

 でも、もっと楽しくやってくにはいろいろとご協力が必要かと思うので、気軽にお声がけください。あと、もっと気軽に人のためになりたいです。たぶん小説の下読みは少し得意で、フィードバックも少し変態的な視点でできるので、声をかけてくださったらおもしろいかと思います。※無料です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023.10.12

 タイトルいつもむだに悩むのでしばらく日付にしてみます。雑な性格なのでたぶんそのうち日付も間違えます。

 

 ちょっと前、一年くらい休みたいみたいなことを書きましたが、今ちょっと半分そうなりかけています。文学フリマ悩んでます。もう支払いしちゃったしなぁ……。できあがっているものもないし、世瞬の新作を間に合わせたかったのですが、難しくなってしまいました。多方面に迷惑をかけつつ、いつもどおり亀の歩みです。

 

 しかしまぁそろそろこの亀の歩みにも飽きてきたというか、打開しなければという気持ちがあります。やはり私は本を読んで小説を書いて、みなさまから少し遠い未来のことを考えているときがいちばん自然に歩みやすく、それ以外のことをどうしてもしたくない! と思うことが多いです。

 つくづく道徳観のないやつだなと思いますが、会社員をやめてこちとら「ぜんぶ取りしていく」が本来の目標であったはずなので、リソースがゼロに近い今の状況でもどうにか変態的にうまくいかせる方法を考えることに努力したい気持ちです。

 

 うーん。前に融資断られたときの言いぐさだと、地道にがんばりますはやっぱり弱いんですよね。当たるかどうかはもちろんだれにもわからないけど、少なくとも収益モデルらしきものを持っていくことは必要らしいです。この辺りからちょっと頭をひねってみます。

 

 

このごろのこと

 こんにちは。急に寒くなってきました。

 このごろは思うように仕事がはかどらず困っています。過眠傾向も、なぜかバイトが今月4日しか入ってない(月8日は必ず入ってくださいと言われてたのにそれは上限であって下限ではなかったようで、いいように使われてるのが悲しいです)のもあり、休める時間が増えて少し落ち着いてきたものの、エンジンのかけ方も忘れてしまったみたいです。

 

 本を読むことはできるのでよく読んでいます。最近は前田愛「近代読者の成立」という前から気になっていた本を読みました。出版の歴史的な話はだいたい活版印刷が主流になった明治からの文献しか見つけづらかったのですが、本書は木版印刷が主流であった江戸時代後期からの出版と読者の変遷を辿っており、おお、と思いながら楽しく読みました。

 

 今じゃっかん迷子というか、指針が定まらず困っているところでもあります。

 あれ? 会社としてどのようなマイルストーンを辿ろうと思ってたんだっけ? とちょっとなっていて、思索をまとめる時間や精神の余裕があればなぁとも思っています。

 たいてい正解が自分の中で無意識に存在していることが多いです。それを紐解いていく作業です。謎の発光する塊みたいな、オーラのようなものがあってそれに従って動けばいいはずなのに、その正体となると自分でも掴みきれていないので、人にも説明しづらく、勉強など人の尺度に当てはめる作業をしてはじめてちゃんと降りてくる感じです。

 なのでなにか変わることはなく、ただ有限のリソースを吸収しつつ進んでいけば必ずよい結果になるという確信はあるのですが(この楽天的なところが私の長所なのですが)、もう少し時間がかかります。

 出版の歴史や文学の歴史などを自由研究みたいにまとめていて、論文にもしたいのですが、そもそもそんなことやってる暇あるのか? といった常識人の声(それは自分でもあるのですが)が聞こえてきて、なかなかこの人の世は難しいなぁと感じます。

 

 ほとんどないエネルギーがよりにもよって内にこもっている感じはあって、外に出ていかない以上外部への成果として出力できないのですから、困りものです。

 ただ、どこか今が本来の自分に近い気もしていて、これが気持ちいいわけではなくむしろ嫌で早く楽になりたいのですが、ソフトに受け入れていきたいです。

 

 のんびりしすぎじゃないかなとも思うのですが、小説は少なくとも75才まで関わる算段を立てているので(遺作のスケジュールまで立てているので)、もしかすると人より長いスパンで物事を見ているだけなのかも? とも思います。

 

 2000年、という文字列を先日、YouTubeかなにかで目にしたのですが、むしろ2023年という文字列よりも未来感があって、一瞬未来のことと錯覚しました。それから23年も経ったことになります。今の社会をたとえるならば悪く笑えない冗談のようで、いちばん愉快じゃない世界線にいるのかもしれません。

 

 ずっと教室のすみっこがよかったです。世界がもっとちゃんとしていれば、私もはみ出し者としてずっとだれにも読まれない小説を書くだけで済んだのになぁ、とかふと思ったりもします。人畜無害な存在として透明になりたかったですが、役割を果たす、というまったく逆の行為にももちろん喜びはあり、ただ今のところどちらも煮え切らずなので、それが苦しいのでしょうか。どのみち現状としては、今でも教室のすみっこであることには変わりありません。

 

 もう数時間だけ休んでみます。

 

 

 

 

 

 

過眠、物語、強迫観念など

 こんにちは。更新のたびにご無沙汰しています。

 最近は過眠傾向(というので合ってるのか?)で、しかも夜眠れない……4時近くにようやく寝れて気づいたら午後みたいな感じです。夜勤の影響もあると思います。

 ただなんとなくエネルギー不足というか、外に向けて行動できないような感覚もあり、またうつ傾向が復活してきたのかな? ちょっと心配です。

 本づくりもなかなか進まず、みなさまへの連絡もうまくできず申し訳ないのですが、あまり自責にも他責にもならずにいようと思います。許し合っていければいいです。

 

 こうでなければならない、という規範意識が高い時期も私にありました。つい最近までかも。作家とはこうであらねばならない、など。

 ただ、必要最低限の場面以外は、それをわざわざ公言せずともよいのでは? と最近は思いはじめて、もっともっとゆるく、ゆるい印象で、柔和な人と思ってもらえたほうがよいので、ちょっとずつ意識しています。

 

 やっぱり寛容ではない人はちょっと苦手みたいです。

 

 最近は読書もよくしています。今は「出版と権力 講談社と野間家の一一〇年」(魚住昭 講談社)を読んでいます。講談社の創業者 野間清治の半生を清濁併せて描いている作品で、600ページ超、かなり読みごたえあります。野間とその周辺の人物たちの半生は、そのまま明治期の出版・マスメディアの勃興の歴史そのものでもあり、勉強が進みます。

 

 今の私にとって、いちばん調べていきたいテーマが「物語」です。これは以前にも一年くらいかけて充電期間中にやっていきたいと発信したことでもありますが、意外と半休眠のような現在でも進められています。

 大正から昭和くらいまでの、現代より一歩手前ほどの時期の最重要な「物語」はマスメディアだと仮定していて、今はそこを調べて追及していきたい気持ちです。

 

 時代によって「物語」は変遷していくといった考え方を今の私は採用していて、調べて自分なりに思想を構築していけば、「少し先の未来の物語」として自分たちの出版社がどう動いていけばよいかが明確になるのではないかなと思っています。

 

 強迫観念みたいなものが強い傾向にあって、「今日は進んだだろうか」「最近は進んでいるだろうか」を気にしすぎて、まぁだいたい世の中のタスクなんて基本的に後れがちになるに決まっているのはみなさまもよくわかるかと思いますが、その結果気が滅入ってしまうという状況に陥ることが非常に多くて、これはだめだと感じていました。

 かといってゆるく行こうがんばりすぎないようにしようとしても根本の解決にはなっていなくないか? とか感じてううと頭を悩めることがしばしばでした。

 でした、と過去形で書くとそれはもう解決済みのように聞こえるのですが、とりあえずゆるく行ってみて、いつか時が来るまで考えごとでもしていようという気に今はなっています。過眠もその結果、身体が引っ張られているのかもしれません。

 

「物語」とはなんだろうと、これはもちろん一言で言い表せないのですが、あえて一言でいえば「因果(因果関係の理解)」なのかなと今は仮定しています。もっと調べていけばまた仮定が変わるのかもしれませんが、けっこういい線はいってるのではないかなとも考えています。

 

 たとえば大昔、雷は神様の怒りだと信じられてきました。雷が森に落ちると火事が起きますが、その火は原始人類にとってとても有用な道具になります。まだ火を自力で起こすことができなかった人類は、神に祈りをささげて雷を待っていたはずです。

 

 今は科学技術が発展して、お祈りをささげれば雷が起こることはないだろうと思われていますが、この因果関係を物語化できるのが人間の特質であり、それが現代に至るまでつづいているのではないかと仮定しています。物語化して共感を生むものは大勢に受け入れられるので、それで能力をスケールさせることができるわけです。

 今でも政治であったりうわさ話であったり煽情的な投稿であったり、お金や科学など「物語」は至るところに溢れています。

 それらは「こうだからこうなった」の因果関係に依って立つものであることはすべて変わりません。人の認知能力として因果(物語)は現状最適で、なにより安心感があります。

 今一度、私たちはなにかの因果関係を持って蛇の血をべたべたと身体にくっつけていたころの人類と根本的には変わっていないことを自覚しなければならないのか、そこはまぁ「こうして進歩してきた。だっていまやインターネットもあるし民間人が月に行けたりしてるじゃないか。僕たちは原始人じゃない!」という物語を採用すべきなのか。

 

 もしかすると自分たちはあるいは自分は巨大な妄想にとりつかれているのかも、と思いながらなにかを判断して暮らし続けられるほど人間の能力は高くないです。

 

 ただ、その絶望を受け入れつつなんとかやっていくにはどうすればよいかなぁと、それが私がこの社会に貢献できる数歩であればよいです。

 

 強迫観念が断ち切られるというほどではなくとも、ゆるまるにはやっぱり「進んでいる感」もそうだけど、人との縁もそうだと思えています。少し会話をして、受け入れてくれるといった感覚を持てるだけでなんだかとても安心します。だからやはり、つかれるけどその先の広がりを信じて、話しかけていこうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世の中の本をすべて無料で読めるようにしたいかもしれない

 これからは、このような雑感的記事を折にふれて書いていこうかなと思っています。体系的な理論にまとめるまでのあくまでも暫定的な気分の流れというか、聞き流していい話……程度の認識でいてくれると助かります。

 

 今日の記事のテーマはタイトルのとおりです(タイトルもちょっと悩みました。断定的な物言いにしちゃうとあれかなとか・・)。

 今の世の中、本はお金を払って買うものですがそれをナシにできないかなぁ、とかよく考えています。

 もちろん、現時点この社会では有料でなければならないに決まってます。原価やそれ以前に必要な技能がどれだけ一冊の本に集約されているかは身をもって感じていますし、私自身は出版社の立場だけど、書店や取次、印刷会社などさまざまなステークホルダーの利益も関連します。

 

 ただ、私自身が「本や読書は文化的なインフラと考えたい」という立場のため、あくまでも将来的な話だけど、すべての本が無償で無条件に提供される世の中、も検討されるべきでは? と考えています。

 お金がないから事故にあっても救急車が呼べません、とはならないですよね。公共サービスなので、救急隊員の方に直接お金を払うわけではないです。端的に公共サービスにすればよいのは、に近くはあれどもう少し複雑なことを考えています。

 

 今でも公共サービスとして無償で読書が提供されている場所はあります。説明するまでもないですが、図書館のことですね……。

 思えば私は、世の中の大半の本は図書館を通じて読んでいました。今でもそうですし、学生時代はもっとそうでした。

 そしてそうでなければ、人生での読書量はもう圧倒的に減っていたはずです。100分の1くらいに減ったかもしれません。

 

 もちろん、学生時代から本は購入して読むのが当たり前だった人もいるはずです。衛生面を気にするとか、当時の私のようにそもそも買い物の仕方がわからなかった(自販機でしか買い物ができなかった)などその人その人の金銭面以外の事情もあるはずです。

 

 消費増税や物価高などで日本人の実質的な所得が減っていく中で、いわゆる余暇にかける時間もお金も全体として減りつづけていて、一方で、余暇や趣味の範囲を含めた世の中全体のいわゆる商品(モノやサービス、もちろん本も含む)の総量は増え続けています※まだ統計を確認したわけではないですが印象として私個人はそう思っています。

 その結果であるのかないのか、書籍の総売り上げは90年代中盤ごろから低迷傾向にあります。

 

 もっと個人的な範囲でいうと、自社の本はもちろんたくさんの人に読んでほしいけれど、そのお金がどこから出るのかと考えたときに胸がいたむような気がちょっとします。

 これが石油王とか、高所得者向けの商売をしているのならば別かもしれません。

(あと、自社の商品に自信を持っていれば堂々とお金をもらえるとかそういう軸の話でもないです)

 特別お金持ちでもない多くの若い人に向けた活動をしていきたいと考えたときに、1冊で千数百円の本を買える余裕が果たして今の世の中の大勢の人にあるのか? とも感じます。

 仮にですけどうちの本にそれだけの価値を感じてもらって買ってもらうことがあるかもしれず、それはうれしいことだけど、その分なにか(世の中のほかの本だったり商品だったり)を買う機会を犠牲にしていることには変わりなくないか? とも思うし。

 

 

 もうじき世瞬舎の第一期はおわるのですが(前回のブログ参照)、第二期以降はこの辺りの考察をもっと深めて、なにか確実な手ごたえを掴みたいです。

 

 今の段階の思いつきレベルで話せるならば、やっぱり無料で多くの人に読んでもらうほうが私はいいです。人類全体にとっての文化的な便益で考えてもそうなのかなぁと感じます。

 本や読書を文化的「インフラ」と定義するのならば、収入やその他によって読める人と読めない人が発生するのは本質的には望ましくないです。

 世の中のすべての本が無料で、無条件に読めることが理想かもしれません。

 無条件に、というのは、言語や身体的なハンディキャップや認知能力・読解力なども超克して、という意味です。

 

 もちろんそれをどうやって実現していくのか、という話で、世の中に経済という前提条件がある以上、後ろ盾がこうであるという設計は必要です。出版業界だけでなんとかなる話でもなさそうです。無条件に、のほうに至ってはテクノロジーの進化も必要かもしれません。

 

 このようなことを今日は文章にまとめてみました。これでひとつ素材ができたわけなので、活かしつつ、もうちょっとちゃんとした理論体系にできるように勉強していきます。

 

 近い視点に降りて自社の話で終わるならば、直接の消費者から直接お金をいただく現状のモデルよりも、もうちょっといい形(たとえば企業にスポンサーになってもらうとか)くらいからなら、自社だけでとりあえずはじめられるかも? とか考えたりもします。

 

 いろいろやっていくには私自身の体力が不安ですが、休み休みしつつ、未来をつくっていく仕事につけている幸福を感じながら、ぼちぼちやっていきます。 

 

 

 

 

 

 

 

最近考えていること(活動休止について)

※なんか、かなり具体的に書いてしまいましたが、正式な発表ではないです。まだ先のことなので、いろいろ部分整理しながら、みなさまに迷惑をかけない形で進めていきます。あくまでも個人ブログでのぼやきとして捉えてもらえれば幸いです……。

 

 

 出版活動の休止期間(充電期間)を今後設けようと考えています。

 今すぐにではなく、来年の6月~8月ごろから1年間ほどで計画しています。その後、ゆっくりと制作・出版活動に復帰していきたいです。

 

 あと1年がんばって、その後1年お休みして、また再開する、といったイメージです。

 刊行物は(休止前までのこの1年で)あと3作ほどになりそうです。

 前提として、活動休止は「これからもつづけていくため」の措置と考えています。後述する諸々の理由で、今は活動継続が困難なので、ちょっとしばらく止めておこうといった方針の中で生まれた判断です。

 

 

 この出版社が生まれたのは2020年の8月のことで、当時は「出版社名」と「ロゴ」だけのとてもちいさなスタートでした。

 その翌年、2021年の1月には著書を刊行することができて、以降もゆっくりペースではあるものの、2022年に3冊、2023年に1冊と着実に刊行ができていました。

 

 

 

 現在の活動の核となっているものは、「世瞬」という雑誌です。こちらは、私が出版に携わってきた中での成長と、出版と本の世界に対する願いをそのまま表現したような雑誌で、現在も新作を制作中です。

 

 

 

 活動休止の理由としては、以下の3点です。

 まず1点目に経済的な問題があります。

 本の制作は原価が発生しますが、おそらくみなさまが想像するより高額だと思います。近年は物価高騰により印刷費その他も上がっているのでなおさらです。

 私はもともとなんの後ろ盾もなく、そもそも「今はゆっくり休んで」と言われていた時期に出版活動をはじめ、今も主治医には週2の外出が限界なんですよね~とか言ってて「そうですね、徐々に活動量を上げていきましょう」とか言われているのに週7でバイト入れたりもしました。

 もちろん本が売れて黒字に転換できればなんの問題もないわけですが、私には商才があまりなく、自分ではいい作品がつくれたなと思っても、それを世間的な評価に結びつける力がありませんでした。そのため、つくればつくるほど赤字という状況を脱することがこの数年、ついにできませんでした。

 

 ちなみに何度か言っていることですが、1年ほど前に離婚をしました。なので、お金のことで家族には迷惑をかけれないような状況には一応なっています。経営が軌道に乗れば再婚することになっていますが、まだ遠そうです。

 

 2点目は、時間が不足していることです。

 僕はもともとワーカホリックなタイプではなく、ちなみに今でも別に猛烈に働いているというわけでもないのですが、いろいろあって個人出版社にもどってしまい、生計のためバイトも始めた中、時間的な余裕やインプットの余地がなくなっています。

 学ぶことや本を読むことが好きな私にとってはなかなかきついです。

 

 もともと私は「出版業界の人」になりたいという動機ではじめたのではなく、ただ自分の本が出したくて、いろいろあんまりよくわかってないまま出版社をはじめました。この過程で様々な実務を含めた勉強をしていくことにより、自分なりに見いだせたこともたくさんありました。

 ただ、このままではまずいかな、とも思っています。

 今よりももっと遠い場所に手をかけたい中で、今の寝て起きてPCにかじりついて週2,3のバイトでなんとか生計を立てて、という生活は改善したほうがよいのでは? と感じています。

 

 3点目は、自分の言葉を持つ準備をしたい(休止期間中に)です。

 これは一番よくわからないかもしれませんが、ずっと出版活動を行ってきた中での悩みでもありました。

 私は本を読んで知識を入れることに関してはチョットだけ得意かもしれませんが、それを不特定手数の人に自分の言葉で発信することがとても下手です。

 下手なのがわかっているがゆえに余計に発信しづらい、となります。

 結果、商機ばかりか人との縁(知ってもらうきっかけ)もみすみす逃してしまっているのでは? と考えています。

 

 世瞬舎がやっていきたいことは、おおまかには「本と読書がもっと身近な社会へ」進んでいくこと、本が好きになるきっかけづくりをしたい、ということになります。

 

 既存のマーケット(出版という約1.5兆円規模の市場)の中のパイを奪う(ベストセラーを輩出する とか)が目標ではなく、マーケットそのものを大きくしていくべきなのでは? と考えています。つまり私は、いちプレイヤーの立場であるけれど、「出版という場を大きくして、再定義して、整えていきたい」と考えています。

 また、これはなにも国内の総売り上げが上昇すれば達成ということでもなく、人々の読書に対する意識とか、そういった面も含みます。

 

 出版業界では絶えずいろんな問題が語られます。印税をもっと上げなくてはとか、本の値段はもっと上げるべきとか、再販制度は必要かどうかとか、出版社って今の時代不要なのではとか、いろんなことが語られ、また実際に改善策を実行に移している方たちも多いです。

 私も出版に関わる者として、よりよい未来をつくるために行動していきたいです。

 ただその前提となる私の「こう考えている」「こうしたい」が、一般的によく見られる論調や情緒的に納得できる筋ではないことが多く、ちょっとかいつまんで話す、みたいなことをしても伝わるはずがないなとも感じています。

 すごく端的に、示唆的に言うと、業界の問題(印税が安いとか本が売れないとか)、と捉えるのではなく、もっと大きな、人類史的なスケールで語らなければならないのではないかと考えています。経済や社会、政治、そして文学をはじめとした芸術などさまざまな論点も含めます。

 私にとって出版活動は、すごくざっくりいうと世界をよくしていくことと同義なほど大切なものととらえています。

 

 これらをブログの一記事のみで書ききるのは困難ですし、私自身も考えをまとめきれていない部分もあります。

 休止期間を使ってさらに勉強を重ね、少しずつ自論をまとめて記述していき、最終的には1冊の本になるか、ならずとも単体で作成したホームページに体系的にまとめる、くらいのことはしたいです。

 それをひとつつくってしまえば、あとはそこに書いてあることをSNS上などではかいつまんで端的に話すだけなのかなと思っていますが、その土台が今はないので、自分自身も言いたいことが言えない、わかりやすい発信ができない、世の中が悪い方向に向かっていくのを黙って見ていることしかできない、の悪循環に陥っているような気がします。

 

 

 休止期間中は、本の制作はやめて、先に書いたような勉強と自論の構築に励みつつ、債務整理をして、バイトもちゃんと家でガスとか水道水が出る程度には働きつつ、今よりももう少し人生を楽しんでいきたいです。

 世瞬舎という屋号がなくなるわけではありません(たぶん……債務整理したら強制的に? 廃業しなきゃいけないのかな……?)。既存作の販売はつづけます。

 また、普通に文学フリマに出たりとかもするかもしれません。

「新作の制作の休止」といった意味合いが近いです。

 いうてそんな休んでなくない? と自分で書いてても思うのですが、でもやっぱり自分の性格的に「休止」という看板をつけないと切り替えられない気もしています。

 

 

 一応、まだこれからのことではあるので、もろもろ整理してから正式に発信します。

 あらかた書いたあとにはなりますが、あくまでも個人ブログでのメモくらいに思ってもらえると助かります。

 

 ひとまず、このように考えているということの共有でした。

 毎度ご心配おかけしますが、見守ってくださるとうれしいです。