超時空の夜

作家/ちいさな出版社「世瞬舎」代表 

コミュニケーションが自分の課題だと思っている話

 最近よく思っていること。

 人それぞれ人生において向き合うべき事柄はあるはずですが、私の場合は特にコミュニケーションについて、これを意識的に感じています。

 

 私が自分なりに定義している言葉と、世間一般的に理解されている言葉。そこに大きな隔たりがあります。ものの見方だったりもそうです。

 ここ数年の表現活動、インターネットを中心とした活動において、それらを感じることが多々ありました。

 

「コミュニケーション」という言葉にしてもそうです。たとえば私は「世瞬 Vol.4」という本において「言葉とは古来からコミュニケーションであった」と定義しました。つまり人間と人間が双方向に意思を伝達することです。そしてそこには必ず齟齬が発生し、完全なコミュニケーションは(現状)ないと、そのようなことを書きました。

 

 人に意思を伝達するのはとても難しいです。人生の背景も性格もさまざまちがう人たちと、相互にやりとりをする、と。

 

 今、世瞬舎という事業ではここに多大な焦点をおいています。関係する人たちや、読者と、これから読者になってもらいたい人たちに、言葉、それは直截的ではなくても、作品などの表現であるかもしれません、その言葉たちを伝え、すべて理解してもらえなくとも、なにやらそこに意志があるらしいと感じてもらう。

 

 私ももう30年ほど生きてきて(公称では17才ですが)、「言わずともわかってもらえるだろう」みたいなことはほとんど思わなくなってきたのですが、意外とこれができない人も多いと聞きますし、私自身も自分で感知してない範囲でそうなのでしょう。それをなくしていく作業でもあります。

 やはりどこまでいっても私の戦いは「社会」や「世界」が相手です。特定個人や特定組織ではなく、もっと巨大ななにか。

 

 平易で親しみやすい言葉に直すことがいかに難しいかも実感しています。しかし本来において言葉の役割はそれであったともいえ、ここを突破していけば、出版事業も多くの人の理解を得て前進していくはずです。

 

 ところで最近は箇条書きが自分の中でのブーム。

 つまり結局、コミュニケーションにおいてなにを心掛けているのかというと、

 

・きちんと言葉で伝える

・人に理解してもらえる言葉で伝える

・人の話はちゃんと聞く

・その人を幸せにすることを念頭におく

・あの人どうしてるだろうな……と思ったら直接メールなり電話なり手紙なりする

・そもそも社会は私を迎え入れていないのだと理解する

 

 などとなります。

 

 

 そうこれもまさにコミュニケーション下手な私が出ています。箇条書きと前文の解離がすごい。古来から言葉はとか言ってたのと、人の話をちゃんと聞くとかがどう結びつくか、それを表現していくのが、私と私の事業のコミュニケーションとしての課題なのですよね。

 

 おそらく多くの人々において、観念と実践は結びつきません。就職予備校的な暗記教育で育った日本人としては、社会や歴史や哲学、つまり学問はお上のもの、会話の作法は日常つまり市井のものという区分けが無意識にあり、ゆたかな思索を阻害しています。

 

 遠くで蝶が羽ばたいたことと、この宇宙で起こった数多の事柄と、私が今日だれとなにを話すか。それらは巨大で複雑な川の流れです。私はそれを思索や言葉に適用することをしばしば「綜合する」と呼びます。すると必然、文章とそれを読む人のあいだに解離が生まれます。が、自然は本来そうである。

 

 言葉は使わざるをえない不完全なものでありながら、これを愛している。この人間としての美しい態度が大事なのだろうなとぼんやり思う日々です。