新作の制作着手を皮切りに、多くの新しい出会いが増えてきました。この機会にあらためて、世瞬舎という出版社の夢を書き残しておきます。
最近、何人かの方にお渡しした新作の企画書はとてもがんばってつくりました。
その企画書では「本と読書がもっと身近な社会」を歩むためのマガジンといったことを書きました。これがそのままイコールとして世瞬舎の夢とむすばれます。
出版社は儲からない?
私自身このような商売をしていると「本なんて儲からないでしょ。なんでやってんの」などと言われることもたまにあります。そしてそれは実際当たっていまして、儲かりません。
出版産業は薄利多売の極みともいえ、大量販売を前提とした収益モデルです。必然、少部数販売が主である当社のような小規模出版社の経営は特に厳しいです。しかしその上、大手出版社も含めた業界全体として、しっかりと本が売れなくなっている事実はあるようです。
国内の出版物総売上は、ピークを1996年として徐々に下がりつづけています。2010年代後半からは電子出版の売上がこれを補完する形で増えてきてますが、これをもって「電子書籍が売れてるから業界は安泰、これからは電子書籍の時代」ともいえないかな、というのが個人的な見解です。
私たちはいち民間企業なので、つい「このマーケットの中でいかにサバイブしていくか」だけに目を落としがちです。つまり、自分が戦うべき市場は電子書籍含めて1.5兆円くらいの規模だから、そのうちの何パーセントを自社が囲っていけるかな、と考えがちです。もっと分解していった先の個人レベルでも「この界隈はだいたいいって1,000人で、競合のBさんはそのうちの9割がたはもう囲ってるから……」などなど、意識的か無意識かに関わらず感じることはあるかもしれません。
私はこのような考え方が非常に苦手でしたが、あるときから「マーケットそのものを拡大する」を指向していけばよいのでは? と閃きました。
たとえばの話しかできないのですが、今一度96年当時の売上水準にもどす(電子か紙かは問わないとして)ことで、自社もそのほかの出版社も、今と比較すればまだ健全な出版活動ができるのではないか、というような話です。
もちろんこれが当社だけで達成できるはずもなく(なくもないのかもしれませんが)、加えて「それができればだれも苦労はしない」といった類の話です。
しかしだれかがそれを想起して実行しなければ、いずれこれらのグラフは右に行くにつれて、未来へ行くにつれてぺしゃんこになるかもしれません。
どんな本も文化的資産?
「納本制度」とは、図書等の出版物をその国の責任ある公的機関に納入することを発行者等に義務づける制度のことです。わが国では、国立国会図書館法(昭和23年法律第5号)により、国内で発行されたすべての出版物を、国立国会図書館に納入することが義務づけられています。
納本された出版物は、現在と未来の読者のために、国民共有の文化的資産として永く保存され、日本国民の知的活動の記録として後世に継承されます。
当社の本も、新作が出るたびに納本しています。頒布を目的とした本は原則として納本の義務があります。
売れた本であるかどうかはもちろん関係ありません。なぜなら、すべての出版物は後世に残すべき文化的資産であるからです(と定義されているからです)。ここにおける「後世」というのは、おそらく想定としては100年後とか1,000年後とかそのレベルの話でしょう。
こう考えたとき、出版物の価値は売れる・売れないに関わらず、ただその「一冊」であるだけでもう充分なのかもしれません。
もちろん粗製乱造という言葉もありますが、それはそれで文化的資産でしかないです。「21世紀はこういうジャンルの本が数多乱造されるほど人々に注目されていたんだな」と後世に研究される指標になります。
出版とはビジネスであるけれども文化の創造でもある。私にとって、この視点は大切なものです。
ビジネスと書くとあれな言い方ですが、もちろん多くの人に必要とされるのは喜ばしいです。
私はふだん、当社の本を手にとってくれる人たちのことを「読者」「読み手」と表現します。実際は一人一人の顔が見えている場合が多いので、ふつうにお名前を呼んだりもします。
「お客様」「消費者」「顧客」と呼んだことはおそらく(銀行など形式的な場以外は)ないです。
顧客が望むものを提供する、こういったプロの仕事は尊敬していますが、私の役割ではないと考えています。
私ができるのは、自分たちでつくったものをだれかに出会わせることでしょう。
だから「売れた」という表現もほぼしません。
「お渡しできました」「おとどけしました」などと言っているはずです。ちょっと自分のTwitter見返してみよ。
複製頒布物である「本」は、これら一人ひとりの本との出会いを、人の数だけ幾回となく繰り返すことができます。それが十万回や百万回になったときにベストセラーと呼ばれる、これが健全な出版の姿のはずで、つまるところ私はそれをしたい、ということでしかないです。
このようないくつかの前提を経て最初らへんの話にもどり……。
数値上の目標として売上などの指標を使うことはあっても、それらを分解していったとき、当社が向かっていく先は「新しい読者を増やしていく」になります。そして「新しい読者」とはなにかとなれば、それは現在の出版マーケットの外にいる人たちです。
このような統計からみても、おそらく国民のうち熱心に本を読む層は多めにみても半分に満たないです。
「不読者層」は世の中に確実にいて、この人たちに「本と読書を身近」だと感じてほしい。そのためのきっかけづくりのような活動をしていきたいと思っています。こうして私たちの活動が、きちんと新しい読者を獲得して社会的にも実を結んだときに、もしかしたら世瞬舎として夢を実現できたといえるのかな、とは考えています。
本との出会いがもたらしたもの
今すでに本が好きな人や、文筆を心得ている方に「本好きになったきっかけ」を聞くのが好きです。そうすると、たとえば幼少期から絵本を読み聞かせてもらってたとか、親の本棚がすごくて家にいるときたくさん読んだ、という方が多い印象です。
私自身どうかというと、そうでもなかったです。
この辺りを話すとさらに長くなってしまうのですが、私は必要に迫られて本を読みはじめたのが「きっかけ」でした。
小説家になりたい・プロデビューしたいえぐい発作が高校時代にまずあって、公募にかかる小説ってどんなだろうという思いでたくさんの本を読んでいった、その中でやがて、本や読書そのものがとても広い世界で実りあるものだと知っていきました。
本の世界との出会いは、自分にとって痛烈なものでした。
流行のJ-POPと、ジャンプの週刊連載と、エンタの神様と学校と家、その程度が「この世界のすべて」だと思っていたのです。
ある朝起きたら虫になっていた男の話とか、一人の女性に心から仕えるために自ら目を突き盲目となる男の話とか、なんだかすごい物語が世の中にあるんだということを知ったこと。
あるいは、私はわりとそのころからちょっとロマンチックなところがあって、「永遠ってなんだろう」とか「なぜ記憶の中にある世界にもどれないんだろう」とか色々考え込んだりしていて、たぶんこんなこと考えているのは世界で自分ひとりだけだろうなとすら思っていたのですが、わりとそんなことなかったというか。
そもそも「この世界とはなにか」「宇宙とはなにか」「孤独とは」「実存とは」などさまざまなことはもはや考え尽くされたというほど先人たちによって書き出されていて、実はその恩恵に私たちはふだんから預かっているのだ、ということなどもなんとなく知りました。
よく「もうアイディアは出し尽くされていて、書き尽くされている」といった言説が見られますが、個人的な見解としてはそんなことはないと思っています。
もちろん「うわ、もう語ってたのかよ」みたいなショックがありはしたけれど、それはそれで学生時代の私の心を埋めてくれました。自分は孤独じゃなかった、と知れたのもまた本のおかげです。
たくさん読んでもなお、まだ表現されきっていないものがあって、それを私は自分で小説として書きます。だから本音の「うわまじか」は、それはそれで健全な感情にちがいはないけれど、先人が死ぬ思いで絞った言葉の数々が近所の図書館に山ほどある、田舎の工業校生の私にさえ手がとどく場所に山ほどある、その状況の幸運というか、それらはすべて認識していなきゃいけないな、と思います。
今風にいうとみんなリスペクトというやつかもしれません。先人たちに感謝、図書館の司書さんに感謝、図書館をその日まで維持してくれた市長やなんかいろんな人に感謝、みたいな。
まあ当時はそこまでできた人間ではなかったのですが、振り返ってみるとそうも思うのでした。
こういう原体験があるので、なんというか私の中で読書は「趣味」ではないのです。
楽しい思いをするために本を読んでいたのではなくて、人生の必要に迫られて、というか。ほとんど世界の理を知り尽くしたい思いだけで読んでいたのかもしれません。一冊の本には一人の人生やひとつの世界がありますから。
趣味ではなかったのならなんと呼ぼう。
「ライフワーク」「生きがい」とかっていうのともちがうし。やっぱり「身近」というほかないのですよね。今でもそうです。なにが楽しいかといえば普通にテレビゲームしてるときのほうが楽しいし。だからそこに、いわばエンターテインメントの俎上に本が並ぶ必要もないと感じています。
かつて庶民の娯楽の王道が小説だった時代、たとえば昭和初期に大ブームとなったいわゆる「円本」の数々は、新聞紙面において大々的に広告展開されました。手元に今資料がないので具体的には紹介できませんが、「一生暇しません」レベルのすごい文言だったと記憶しています。
そしてその時代はとうに過ぎました。その上において今、本の価値はなんなのか? を問い、広めていくのもまた、私たち出版社の役割なのかもしれません。
私たちはもはや「一生暇しません」などという幻想は、その辺のちょっといい薬や飲み物でも飲めばそうなれることを知ってしまっているのですから。
読書は「文化的インフラ」と表現されることもありますが、あまり一般的な言葉ではないです(知る限り一部の論文などに記述がされている程度だけど、いい言葉なのでめっちゃ流行らせたい)。
水や電気と同じほどのレベルで、本がそこにある社会がいつか実現できればと本気で思っています。それが私にできる唯一の、本への恩返しなのかも? とも。
そのためにどう歩んでいくのか、たくさん考えて実行したいです。力を貸していただけるとなおうれしいです。
おわりに
かなり書き疲れてしまいました(^^;
ふだんあまり語らないことはやはり大変ですが、知ってもらいたい、の思いは大切にしたいので。文章もまとまってないかもしれません。
もう一度書くと、世瞬舎の夢は「今よりももっと、本と読書が身近な社会へ」と舵を取りつづけ、その実現にいたることです。もちろん、数年程度で実現できることではないはずです。数十年かかってもなお、私自身が寿命をまっとうするまでつづけられてもなお、というレベルかもしれません。でもそれくらい大きな夢のほうが、私はやってて楽しいです。
その中でのたくさんの出会いを大切にしながら、自分にできる職務を全うしていきたいです。
ほんとうのおわりに
さてここまで書いた中で、自分でもこう思います。なんてまじめなやつなんだ、と。
ただこれはこれで込み入っていて、あくまでもそういう「社会人としての殻」を被らせてもらっている意味合いもあるというか。
自分の中での世瞬舎(出版)は、人生の主要な両輪のひとつです。
もうひとつの車輪というか、たぶんむしろ根元なのが「作家」の業ですね。
たぶん私は作家のまま出版にたずさわっている自覚があります。だからまちがっても「出版のプロ」とか「プロの編集者」とかは、たとえベストセラーになったとしても自分の冠にはつけないです。もうひとついうと「プロの作家」でもなくて、やはり自分に当て嵌まるのは、業としての「作家」だろうと思っています。
小説は私の生きている理由そのものに近いです。これまた10年かけて書いていく作品があったり、75才で遺作を書くまでの計画があったりします。そしてこの作家という生き方は「職務」のくびきから外れた世界でもあって、こちらも語るとおもしろがってくれるかもしれません。
またがんばれたら書きます。読んでいただきありがとうございました。
▼直売分は欠品中ですが書店で取り寄せ可能です▼
世瞬Vol.4ですが直売分は完売しまして、現在庫は書店分のみとなっています泣
— 世瞬舎 (@seishunsha_info) 2023年6月14日
手に入れ方は下記引用をご参照ください。
Amazon・楽天等での流通も現在整備中ですが少し時間かかりそうです。
また(私の)経済状況的に増刷の目途が立たず、申し訳ありません。 https://t.co/PPbVpA2EzN